【仏教と薬】奈良とくすり出版記念講演会③館長さん-2
1. 「白症(白内障)の手術」との関連について
「眼科のお医者さんがある有名な像を見て、白症の手術を受けた後の痕ではないかと考えた」という話題が挙がっています。この「白症」とはおそらく「白内障」のことで、古代の医療や仏像に施された修復について考察する面白い視点です。
背景と考察
古代の日本や中国において、眼疾患に関する治療は高度な技術とされ、主に仏教僧が学問の一環として習得していました。仏像や大仏などが時折修復される際、その外見に修繕や補修の痕跡が残ることがあります。古代の眼科手術が存在していたことを示唆するものとして、眼疾患の治療痕が仏像に見られることも珍しくないという視点は、医療史や美術史の観点から非常に興味深い話題です。
2. 「最大寺の中興の祖」と「法神丹」について
話題の中心には、最大寺の中興の祖とされる「エソン(恵聡)」という僧侶がおり、彼が立て直した最大寺やその教えについて触れられています。特に注目すべきは「法神丹(ほうしんたん)」という薬に関する話です。
背景と解説
恵聡は13世紀の日本の僧で、奈良の最大寺を再興した人物として知られています。当時の仏教界では、戒律の乱れが問題視されており、恵聡はこれを正すための活動を行いました。戒律を重んじた修行が、最大寺に新たな信仰の波をもたらしました。
「法神丹」は、最大寺の薬作りの伝統を象徴するもので、薬用植物や動物性成分から調合された伝統的な薬の一つです。江戸時代に大仏を修復する際にこの薬が用いられた記録があります。この薬は、東大寺や最大寺の僧たちが販売し、人気を博しましたが、薬事法の規制が厳しくなるにつれ製造が中止されました。
3. 仁西(にんしょう)について
「仁西(にんしょう)」という僧侶が登場し、彼も恵聡の弟子として、特に貧民や病患者への救済に尽力したことが言及されています。鎌倉時代に鎌倉幕府からの要請で、鎌倉に移って活動を行ったとされています。
背景と解説
認証の活動の中でも特筆すべきは、反戦病患者の救済活動です。奈良時代から仏教は、単なる宗教儀式や教義の伝達だけでなく、医療や福祉の役割も担っていました。寺院が反戦病患者などのために救済施設を設けたことは、当時の医療・福祉活動の一環として重要な事実です。奈良の都には、感染症や病の苦しみを和らげるための取り組みが歴史的に行われていました。
4. 奈良時代の主要寺院とその役割について
後半では、奈良時代の主要な寺院についての解説が行われています。特に「平城京」とその周辺に位置する寺院の配置図などに言及されています。
背景と解説
奈良時代の平城京には、多くの有力寺院が存在しており、これらの寺院が宗教活動だけでなく、医療や教育、文化の中心地としての役割を果たしていました。例えば、薬師寺や興福寺では薬の製造が行われており、東大寺などの大規模寺院では僧侶たちが様々な学問を修得していました。平城京の計画的な都市設計と寺院の配置は、日本の宗教史や都市計画史において非常に重要な位置を占めています。
また、平城京の設立時に使用された大量の木材がどこから運ばれたか、さらにはその後の森林の回復の難しさなど、都市の発展に伴う環境問題にも触れています。これは、古代の都市建設が自然環境に与える影響を示す興味深い事例です。
5. 仏教と発酵食品や酒の関わりについて
最後では、寺院が薬だけでなく、発酵食品や酒を作ることに関連して、宮族(みやぞく)という言葉も登場しています。これは、中国からの影響を受けて、仏教と食文化が結びついた歴史的背景を示唆しています。
背景と考察
宮族は古代の中国において、発酵技術や食物の加工技術を伝えていた集団とされています。仏教が伝来した際、食物の発酵や保存技術が寺院の活動の一環として日本にも伝わり、僧侶たちがその技術を活用して発酵食品や酒を製造していたと考えられます。このことは、寺院が単なる宗教施設ではなく、文化や技術の伝達・発展の中心的な役割を果たしていたことを示しています。
平城京の都市計画と木材の伐採
平城京の都市計画は非常に壮大であり、その構造や広場の規模が詳細に説明されています。また、平城京の建設に際して、大量の木材が使用され、その結果、伐採された山が現在でも回復しきれていないことも触れられています。