【読書録】暇と退屈の倫理学 by 國分功一郎

10年ほど前に國分功一郎(現 東京大学大学院総合文化研究科)准教授による『暇と退屈の倫理学』を読んで感動した記憶がある。

その時はまだどういう意味があって感動したのか断片的であるがなぜ面白いのかが今はわかったような気がしている。

その内容について一部まとめる。

そして一部だけ自分の研究についての話に繋げようと思う。

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退屈とどのように向き合い生きるべきかというのが國分が問いたい問題である。

そこで重要な概念になるのが気晴らしである。

気晴らしと退屈は不思議な関係がある。

パスカルは、人は愚かで退屈に耐えられないから気晴らしを求めているに過ぎないという。

シュトラウスは、ナチズムの台頭はファシズムを欲する欲望、興奮を求める欲望から生まれているのであると指摘する。

人間が退屈に苦しむのは、その探索能力をいかせないからというところから出発している。

遊動生活で物を多く持たず探索的能力をフルに活かしてきたきた人間は、定住生活を通じてその探索的能力を使えなくなってしまった。

その結果出てきてしまったのが退屈であるというのが、國分の整理である。

そして、我々人はこの退屈とどのように向かうべきなのか?

國分は暇と退屈を4類型で分ける。

1. 退屈している&暇がある:気晴らしにいそしむ人間

2. 退屈していない&暇がある:暇も生きる術を持っている(いた)階級

3. 退屈していない&暇がない:労働を余儀なくされている階級

4. 退屈している&暇がない:?

1.については気晴らしにいそしむが十分ではない人たち、2.については暇を楽しむ方法を知っている人たち、3. 暇がなく働きづめで退屈していない人たち、4. についてはのちに語られることになる。

特に現代の退屈は、浪費=有限な限界のある享受ではなく消費=無限の象徴的な享受によって起こっているとボードリヤールを引用している。

例えば、一度に食べ切れる量には限界があるし、多くのものを使い切ることはできない。せいぜい一人分より少し多いだけだ。しかし消費には際限がない記号の享受は無限に行われ、そこにものが足りない。

つまり、無限の退屈の出現は、無限の象徴的な享受である消費とセットで生み出されている。

國分は、『退屈しているが気晴らしを楽しむ浪費をする』ことを目指す。

この考えは、ハイデガーを経由して行われる。

暇と退屈を4類型に関連してハイデガーもまた退屈について分析を行なっている。

國分によれば、ハイデガーは、退屈の深化を3つの形式にあるという

退屈第一形式: 何かに退屈している、その世界の奴隷、正気を失っている。
退屈第二形式:「何かに際して」退屈しているが気晴らしをしており退屈に耳を傾けていない「正気である」
退屈第三形式:「なんとなく」退屈している。気晴らしができない、退屈に囚われている

ハイデガーは、この第三形式にある人間の可能性である”自由”が指し示されているという。

しかし、國分によれば、退屈の第三形式からの逃避は、世界への没入を欲望し退屈第一形式へと至る。

人間的生活とは、退屈の第二形式、退屈しているが気晴らしができている状態を楽しむことであるとしている。

なぜなら、退屈の第一形式は、何かに退屈して絶えず自分を見てしてくれるものを求める消費と関連しており、退屈の第三形式は、退屈そのものにとらわれ、何かの没入つまり第一形式への回帰する。

國分はここで、第一形式と第三形式の危うさを語るのだが、読者にはそれぞれチェックしていただきたい。

さらにハイデガーによれば、動物は<世界貧困的>であり退屈しないが、人間は<世界形成的>であり、世界そのものを受け取ることができるが故に退屈する。そこれには環世界というものは存在し得ない。だからこそ人間は退屈することができる。しかし國分によれば、この動物と人間の分断は無理がある。

國分によると、人間に環世界がないという主張には無理があり、むしろ人間には複数の環世界間の移動する能力が異常に高いのみであるとする。

動物と人間には相対的な違いがあるがハイデガーはそこを絶対的なものにしたのではないか。それが國分の主張である。

話を戻そう。

気晴らしを楽しむこと、思考すること、そしていろんな世界についてとらわれ退屈することこそが大事なのである。

それが可能なのは、人間が複数の環世界を移動する能力があるからである。

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私からみた要約であるが、哲学における退屈の分析は素晴らしく好奇心ともセットで考えることができるように思う。

至る所に退屈の罠が存在しているが、私たちは好奇心を育てることができるのではないかというのが私の最近考えていることである。

研究者であるので研究で示すしかないのだが、いくつかメモがわりに残しておく。

ー また環世界へのとらわれを待ち構える人間がどのようなとらわれの動きをするのかは好奇心の一種のタイプのように思われる。つまり、とらわれかたにもタイプがあるのではないかということだ。一つは驚きであり、予想だにしていなかったこと。二つ目は新しさ、今まで観測してこなかったこと。1と2は関係しているが異なる時もある。観測したことはあるが、あるタイミングで予想だにしなかったことが起こるというのはこの2つが微妙に異なることを示している。

ー 環世界における予測可能性というのは機械学習においても重要なテーマになっているが、それだけでなく異なる環世界自体を生み出す環世界生成的好奇心とはいかなるものであるかは興味深い。

ー さらに踏み込んで、環世界をメタ認知して環世界を修正するような好奇心の問題はまだない。ここには構造の問題があるはずであり、構造化を計測するようなあり方を考える必要がある。

ー そして複数環世界移動能力に関する問題は想像力と繋がるはず。想像力のその形式について世界から考えなければならない。

ここらあたりを実験や研究を示したいと思っている。

この素晴らしい本を見ることができ本当にありがたい。

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濱田太陽
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