計算できんで何が悪い!リターンズ③切ない“忘れ物”の思い出
※タイトル写真はイメージです。
僕は、小学生の頃、ほぼ毎日「忘れ物」をしていました。
教科書、ノート、教材、筆箱…何がしかを必ず忘れてしまうのです。もちろん、わざと忘れようとしているのではなく、毎日の日課揃えで気をつけてはいるし、母親も気にかけて手伝ってはくれるのだけれど、それでも何かを忘れるのです。
これに関しては小学校の3年生ぐらいになると、あまりの酷さに両親も諦めてしまって、忘れ物をして毎日のように先生から注意されても、親としては「またか」ぐらいで、あまり気にも止めなくなってしまいました。
ただ、忘れ物だけならいいのですが、しょっちゅう忘れていると、それに伴って物もよく失くすので困っていました。特に教科書はよく失くしていました。教科書は基本無償ですが、失くした場合は実費で購入しなきゃならず、1年に何冊も買うとさすがに母ちゃんからは「他の物は忘れてもいいから、教科書だけは失くさないで」と言われていました。
傘なんかは、朝、雨が降って学校にさして行くと、帰りは雨が降っていようと降ってなくても必ず学校に忘れて帰っていました。例えジャージャー降りでも、雨に濡れる感覚が好きだったこともあって、ついつい傘を忘れて帰るうちに、年間何本も失くしてしまい、父ちゃんは僕が大人になっても「学校に何百本も傘を寄付した。金額に換算したら相当なものだったよな」て笑っていました。
正直「忘れ物が多い」「物を失くす」は大人になった今も大して変わっていないのですが(笑)どうして毎日注意しているのにこんなに忘れ物が多いのか、自分でも不思議でした。それが大人になってADHD(注意欠如多動症)と診断され「それでか!」と納得しました。
そして、その「忘れ物」に関して、ちょっぴり切ない思い出があります。
親は比較的忘れ物に大して寛大でしたが、当然、学校の先生は寛大な訳はなく、かなり厳しく叱ってきました。忘れ物の頻度のレベルが他の子どもと桁違いだったため、何度注意しても改善しない(できない)僕に先生は完全にキレていて、日々の「指導」は本当に激しかった記憶があります。
そんな小学3年生のある日、担任だったN先生の厳しい指導に耐えかねた僕は、ある日、固い決意をしました。N先生は若い男の先生で、いつも児童と一緒に遊ぶなど人気はありましたが、結構熱血タイプの先生で、グイグイ来る感じは僕には苦手でした。
それで僕は「今日こそ怒られないぞ」と決意をして、日課揃えの時に「教科書だけは忘れない!」と何度も日課をチェックし、教科書をきちんと揃えて登校したのです。
ですが、理科の時間の直前、朝、ランドセルから机の中に移したはずの教科書がなぜかありません。「大橋、また忘れたのか!」とグイグイ言うN先生に「今日は絶対持ってきました!」と言うと、先生はその言葉を信じず、「嘘をつくのはやめなさい!」と強く注意してきました。
「持ってきた、と言うけど、机の中に無いじゃないか」と言われ続けているうち、僕も「持ってきた、と思い込んでいるだけで、実際は忘れたのかもしれない。だって毎日忘れるているから…。今日は頑張って持って来たはずなんだけど…」という思いになって、結局「やっぱり忘れたみたいです」と先生に言うと、先生もそれ以上は追求せず、僕はいつものように隣りの席の女子児童の机に自分の机をくっつけ、教科書を見せてもらいました…らしい…です。
らしい…と言うのは、この話、実は僕自身すっかり忘れていました。ところが、数年前の話ですが、とある小学校で、児童と保護者を相手に講演をした時のことです。講演が終わるとすぐに、後ろの保護者席から、あるお母さんが僕のところに来て、泣きながら「ごめんなさい!」と謝ってきたのです。
僕はそのお母さんに見覚えがなく、「どなたですか?」と尋ねると、何とそのお母さんは、あの時僕に教科書を見せてくれた、隣りの席の女子児童でした。
僕はたいていの同級生の顔や名前は覚えているのですが、なぜ見覚えがなかったかと言うと、そのお母さんは小学3年生の始めに転校してきて、学年の途中でまた転校した、と言うのです。人の名前と顔を覚えるのは得意な僕でも、さすがに数十年も前に少しだけ同じクラスだった人の顔と名前は覚えていませんでした。
そして、そのお母さんは、泣きながら僕に驚愕の事実を告白してくれました。
僕が意を決して教科書を揃えて持ってきたその日、彼女はたまたま理科の教科書を忘れてしまったそうです。普段忘れ物なんてしたことがなかったため、恥ずかしくて、先生や周囲の友だちに知られたくないからと、隣りの席の僕が、毎日のように教科書を忘れて怒られているから「大橋君いつも教科書忘れているし、少しの時間なら借りてもいいだろう。あとで返そう」と思い、授業の直前、僕がトイレか何かに行っている間、机の中にあった教科書を見つけて拝借したのだそうです。
そして授業が始まると、僕と先生の「絶対持ってきた」「嘘をつくな」の激しい問答が始まったため、それを見ているうちに怖くなって、教科書を返せなくなってしまい、そのまま僕の教科書を自宅に持ち帰り、家に置いたまま、そのことを言い出せないうちに転校してしまったらしいのです。
そのお母さんは、このことがずっと忘れられず、何十年も罪悪感を感じて過ごしてきたそうで、だからこそ、ほんのわずかな期間しか同じクラスで過ごしてないのに、僕の名前を忘れたことはなかったそうです。そんなある日、娘さんが学校から持ち帰った講演会を告知するプリントで、講師である僕の名前を見つけ「あの大橋君では?」と思い、発達障害やいじめについて語る僕の講演を聞いて「間違いない」と確信したそうです。
泣きながら謝られたことで、僕は当時のことを鮮明に思い出しました。そして「やっぱりあの時、僕は理科の教科書を忘れていなかったのだ」と自分を少し誇らしく思ったのと同時に、僕に対して嘘つき呼ばわりした先生に「毎日忘れていたとしても、あの時は信じてほしかったよなあ」と思いつつ、そのお母さんには「こちらこそ嫌な思いさせてごめんなさい。もう忘れているし、気にしないでください」と声をかけたのでした。
「大橋君、ありがとう。やっと救われた気がする」と言われたそのお母さん。ずっとずっと苦しかっただろうけど、数十年ぶりの再会は、そのお母さんにとっても、僕にとっても、なんだか救いになった、そんな瞬間でした。