自閉症の息子、ゲームに教えを受ける。
長男は発達障害だ。
息子はこの障害のお陰で、なんやかんやあった。
不登校になって最初こそ、一日中塞ぎ込んでいたが、体の調子が上向くと、なにもしないでいる方が辛くなる。
気持ちが前向きでないうちは、自分で何かを見つけてはじめろと言っても無理な話だ。
だから親の側から提案し、やって見せたり、煽ったり、できるものを片っ端から試してみた。
映画やアニメを繰返し見る、
ママさんバレーに連れ出す、
ジグソーパズルをする、
消しゴム判子を作る、
段ボール工作、
割りばし工作、
プラモデル、
イラスト、
手芸、料理、釣り、将棋…。
そのうち「提案が切れる」のは大人として負けなんじゃないかと、試されている気にすらなってありったけ知恵を絞った。
消しゴム判子は、かなり高度なものを作れた。
将棋も強くなったし、魚もさばける。
段ボール・割りばし工作はPTA行事に貢献した。
息子の指先にかなりの可能性や将来性があることが確認できた。
不登校のまま中学校卒業となり、一年間は体力づくりと人に慣れるために、市の就労支援相談室に顔を出しつつ、中卒で仕事に就くか高校生になるかを考える時間をつくった。
コロナ禍で就労支援相談室も開店休業状態だったので、息子は理解ある大人の皆さんに可愛がってもらい、秋になると進学を望むまでに回復した。
経済的な理由で私が仕事をもつと、息子には一人で過ごす時間ができ、すぐに暇をもて余しはじめた。
同じタイミングで癲癇の投薬治療が終わり、経過観察にはいって、ゲームを知ってから数年、一日一時間という制限を緩めることになった。
つまりだ。
彼はついに手に入れてしまった。
ゲームが思う存分できる自由を!!
(思う存分していいとは言っていない!)
翌年には高等専修学校に進学し、一年目は留年、二度目の一年生、そして高二へ。
長男は(もれなく次男も)、今や立派なゲーマーに成長した。
親の身で、日がな一日ゲームをやり続ける姿に、不安や不満を感じない人はいないと思う。
私も苛立ちがなかったわけではない。
しかし、私はゲームに夢中になる理由がよくわかる。
ゲームにどっっっぷりハマる「オタク」の血は、まぎれもなく私から繋がれたものだ。
かつて漫画は、教育上マイナス要素しかもたないとされていた。
今ではどうだろう?
そして、これからは?
ゲームの悪しき面ばかりクローズアップされるが、息子は明らかにゲームによって向上できた面がある。
自室をもっているのは相方だけで、私と息子二人は家での時間をリビングダイニングで過ごす。
我が家は狭いため、ゲーム機器とAV機器、パソコンやモバイル端末などをまとめて設置するしかない。
限りあるスペースに、どう必要機材をおさめるか、配線は?排熱は?予算は?かなりの工夫が必要だ。
先入観が強く、複合的に考えるのが苦手、感情のコントロールが下手なのだから、この作業はなかなかの難題だ。
部品の買い忘れなどあると、いたたまれず塞ぎこむが、他の事なら投げ出しかねないことでも、好きな事なら七転八倒できるのだ。
抜かりなく準備しようと、積極的に調べるようになり、パソコンやペンタブなど次々にマスターしていった。
息子は様々なジャンルのゲームをしている。
アクションRPGの、いわゆる「死にゲー」がお気に入りだ。
「死にゲー」と言われるだけにキャラクターは、敵との交戦やトラップ、飛んだり墜ちたりウッカリで簡単に死んでしまう。
しかし、凄惨な死の少し前のタイミングに生き返り、失敗を克服するチャンスは、成功するまで何度となく与えられる。
むしろ、成功しないと次に進めない。
現実で息子は、自分の無力さを思いしらされた。
失ったものは少なくないし、チャンスを逃せばもう取り戻せないと諦めてきた。
ゲームの中では死に怯えず困難に立ち向かう戦士や勇者になれるが、最初から強いわけではない。
でも、勝つために相手を観察し、戦いかたを覚え、自分を高める方法をさぐれば、結果はついてくる。
現に高校一年生を二回経験している息子は、やり直しの良さとリスクを理解している。
最近は学校を休みがちな友達を励まして、面白く結果が分かりやすい体験授業を紹介しているらしい。
ゲーム内を冒険する、自分のキャラクターをデザインするものがある。
設定条件がやたら細かい場合、取り組む様子から現実でのコンプレックスや、肉体的な理想像や、美意識が感じられることがある。
キャラクターの容姿や能力に、本人が語れないどころか、気づいてさえいない思いが現れる。
自分が満たされたいと思っている欲求や、コンプレックスを自覚するのはいいことだ。
最近のゲームは、ストーリーで旅の行き先を管理されたり、用意されたイベントを順にこなす必要がなく、自分自身の思いのままに冒険できるものもある。
同年代にくらべ、成長がゆっくり目の息子は、現実の世界でも何をやっても冒険だ。
しかし、失敗からのリカバリーや気分転換が困難な彼には、冒険どころか旅行さえ恐怖感がともなう。
幼稚園から中学二年の最初まで、校外学習はほぼ体調をこわし、写真の彼はいつも青ざめている。
しかし、画面の向こうには何度でも失敗してもいい世界があって、となりに母親や弟がいなくても戸惑うこともない。
気圧の変化に弱く、生涯、飛行機には乗れないと思っているのに空を飛ぶこともできる。
「あの山の向こうへ」ただワクワクだけを抱えていけ
るのだ。
ゲーム内の人々の困難を、謎解きしながら手助けするいわゆるイベントは、人とのコミュニケーションのテンプレートのようだ。
自分から話しかけ、会話からイベントの内容を推察し、探索につなげ、お互いの利益をえる。
これに加え、オンラインの参加型ゲームもするものがある。
顔や年齢のわからない、同じゲームが好きな人との十数分の一期一会でも、プレイヤーの性格はキャラクターににじむ。
失礼な人、暑苦しい人、ズルい人、誠実な人、ゲーム経験の浅い人、気配りのできる人…、ゲームだからと重く感じず、様々な資質や性格の人との出会いを擬似体験できる。
私のパート先に、息子と同じゲームが好きな高校生がいて、彼女とは私を介してID交換をし、ゲーム友達になった。
彼女もかなりの猛者なので、ゲーム内では頼りになる旅の仲間同士である。
知り合って一年、先日初めて対面した。
面と向かうと緊張するそうだ。
その後もゲームを楽しむ仲である。
ゲームの残酷なシーンや、視覚的な刺激や、姿勢など身体の問題など、教育や身体の発達上、問題もあるのは承知している。
一方思春期には、精神的成長に伴う攻撃性や闘争本能があり、何らかの方法で発散しなくてはならない。
スポーツであったり、勉強や部活動であったり、脳も体もがっつり使って欲求を解消できればいいのだが、それが叶わないとなれば、私はゲームは有効だと思っている。
私はさすがにゲームを自分でプレイするほど若くはないが、息子たちと一緒にゲームの中のキャラクターを覚えたり、ストーリーを追う。
息子たちと共に、その物語性を支えている小説や映画、キャラクターデザイン、美術的な観点、視覚効果、画面のレイアウト、音楽、プロモーション…、ただゲームをプレイし、クリアするだけではなく、ありとあらゆる方面から掘り下げる。
良質のゲームの制作者への感謝と敬意を覚えるまでが、本当のゲームを遊ぶということだ。
我が家ではゲームは生活の一部だ。
もう、これはまぎれもなく息子の成長を支えている。
長男は高校の選択授業では、ゲーム関係ではなく陶芸をしている。
小皿のセットで受賞したこともある。
手を使ってモノ作りをすることも忘れずにいてくれて何よりだ。
何事もやって損はないよと、そういうお話。
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