見出し画像

アートの話

こういうこと書くとあれだけれど、おいらは芸術に対してちょっといないレベルで理解があるのです。いやホント。もしおいらと本気でアートを話したい人がいればNYCのグッゲンハイム、パリのルーブル、アムステルダムのゴッホ美術館、フィレンツェのウフィッツィ、フィゲラスのダリ美術館、ニースのミロ美術館、ベルリンの現代美術館くらいには足を運んでからにしてください。昨年のケルン出張でもルートヴィヒ美術館で大好きなリキテンスタインやジャスパージョーンズ見てきました。ピカソの陶器もいいコレクションでした。ピカソはアンティ―ヴの美術館に行くと陶器が山ほど見れます。普段あまりギャラリーにもいかない人にとやかく言われないように釘を刺してから始めるのはちょっと前に話題になった「あいちトリエンナーレ」の話だから。

トリエンナーレ内の企画の1つだった「表現の不自由展」は作品の展示が中断されるなど話題になりましたが、あれはとても興味深い展示だったと思います。おいらは遠くに住んでいるので足を運べなかったんだけれど、実はあいトレも2013年には(一時帰国中に)会場を訪れてヤノベケンジさんの「サンチャイルド」とか見てるんですよ。だからあいちトリエンナーレがどんな会場のどんな展覧会なのかは理解しています。

さて、上記のように世界中の展覧会やギャラリーを見て回ったおいらからすると「表現の不自由展」で展示品のいくつかを政治的判断で撤去するのは、日本という国が芸術に理解がないことを内外にアピールする結果しかもたらさないことも簡単に理解できました。ものすごく低能な判断でした。断言します。フランスなどの文化に理解の深い先進国で同様の騒ぎがあったとしたら、作品にいちゃもん付けた人はみんなクソダサいバカとテレビなどでも叩かれていたはず。津田さんのキュレーションが素晴らしかっただけにバカのいちゃもんでケチが付いたのは本当にもったいない展覧会だったと思います。あの時展示に反対の声を上げたバカは一人残らず文化を理解しないサルです。

あの後ベルリンかどこかでも政府が気に入らない(福島原発関連)展示をしたとかで約束してあった大使館の後援を取り下げて世界をあっと言わしたサル達。

ちょっと説明すると、アートは「美しさ」を見せるものと思ってる人がいるんだけれど、現代では作品と鑑賞する人の間に何らかの化学反応を起こさせる「装置」としての役割が本質的なところなんです。感情に作用する仕掛けです。受け取り方は鑑賞者個人により千差万別なので、その化学反応の起き方も人それぞれになります。「表現の不自由展」で展示された作品は歴史や日韓関係などを見た人に考えさせない訳にはいかない表現となっているものが多く、問題提起として機能します。中にはこれを機に興味を持って慰安婦や大戦中の歴史の本を手に取る人がいるかもしれないし、ただ穏やかな少女の表情に平和を感じる人もいるかもしれない、もちろん歴史修正主義者の人には不快に映るかもしれないけれど、そこまでいろいろな化学反応を内包した作品展示によりより多くの人達に歴史の問題を直視する機会を与える役割も果たすでしょう。作品からどんなメタファーを受け取るかは受け手次第なのです。なので、偏見の色眼鏡でしか芸術に向き合えない心無いサル達(でも権力は持ってるサル)の意向で撤去されたというのは悲しすぎる結末だと思うわけです。芸術作品は本来受け止め方も人それぞれの自由があるはずなのに、ひねくれた受け止め方によって表現の自由が守られないというのは芸術、もっと言えば文化の敗北です。

さて、60年代、70年代の日本の現代アートは世界でも一番尖がっていたくらいで「どこまでが芸術でどこから枠からはみ出てしまうか」が法廷で争われました。法廷では概念としてのアートの領域を制作者と裁判官の間で線引きし合ったわけです。日本の現代アートが世界の注目を浴びた時代です。小野洋子さんもこの世代。その後もその(線引きの)枠組みの中で「芸術を楽しめる国」でした。そんな時代が終わって、多分前回のあいちトリエンナーレを境に日本のアートは死にました。権力側が線を乗り越えて力ずくでアートの領域に臭い息を吹きかけてきたわけです。ご愁傷様。

別に理解の度合いが高かろうが低かろうが、みんなそれぞれに思ったことをアートについて語ればいいんです。好き勝手に。ピカソが好きな人がいれば大嫌いな人だっていてもいいわけだから。問題なのは権力側の人間(あるいはサル)が自分の価値観だけでアートの領域に足を突っ込んで表現を「選別」してしまうこと。ここで表現の自由が死んでしまうのです。今後作家が選別を考慮した表現をするとすれば既に自由な表現ではないのです。

「花やリンゴの絵がアートなんじゃないのか?化学反応の装置って何なの?」って好奇心がわいた人におススメな本は赤瀬川源平さんの「反芸術アンパン」や「東京ミキサー計画」とか草間彌生さんの「無限の網」。パフォーマンスやハプニングなんて言葉があるくらいで、アートの表現は実は作品としてまとまらなくても概念だけで成立しうる「装置」なのだと理解できると思います。

蛇足ですが、あいちトリエンナーレの件で何も発言しなかった日本のアーティストはアーティストではありません。商業的アーティストもどき。だから今後日本のギャラリーに足を運ぶ人もアート作品でなく「商業的アーティストもどきによるアートもどきを鑑賞」するという自覚持って出かけてください。ヘタレの作品もヘタレなのです。

法的根拠の面から正当性擁護していた愛知県知事にリコールの話が出ているので、ここでは手短にアートの本質の面からあいちトリエンナーレの正当性を説明するのにTwitterに書き散らかしていた話を少しまとめてみました。リコールの言い出しっぺがここでも書いているサルだしね。

【追記】

リコール運動は8割以上が捏造署名、しかも組織だって場所を確保し、バイトを募集して何かの名簿の名前と住所を目的は伝えずに書き写させていたようですね。こんな組織だった犯罪をしていた運動の代表者は「そんなことしていたとは知らなかった」と、サルでも1秒でウソと分かるウソをついて責任を誰かにかぶせて逃げるつもりのようです。

結果的にはあいトリ騒動って、アートどころか、マトモな人間社会のルールさえ知らない、カネさえあれば何でもできりると思っている最底辺のクズ達がアートにいちゃもん付けていただけの話だったのだと可視化できましたね。

Peace & Love

いいなと思ったら応援しよう!