テルマ&ルイーズ:虚無の時代を疾走するジャズ・セッション
テルマ&ルイーズ
1991年 アメリカ映画
原題:Thelma and Louise
フー流独断的評価:☆☆☆
1967年のアーサー・ペン監督の名作『俺たちは明日はない(Bonnie and Clyde)』へのオマージュであることに間違いない。『俺たちに明日はない』がアメリカン・ニューシネマの先駆けだったのなら、『テルマ&ルイーズ』はアメリカン・ニューシネマの復活と呼んでも良い。前者が1930年代の世界恐慌時代の絶望感を背景にしているとすれば、後者は1980年代のベトナム戦争後の虚無感を背景にしている。『テルマ&ルイーズ』は、底知れぬ虚無感を打破するには、男は無用でありかつ無能であることを証明するかのように、二人の女性が全編を通じて疾走する。ある時はルイーズがテーマを演奏し、テルマがアドリブを加える。ある時はテルマが第二主題を提示した途端、テルマがそれを変奏してみせる。まさに迫真のジャズ・セッションを視覚的に聴いているような感覚に襲われる。
スーザン・サランドンの演技が素晴らしい。ハリウッドきっての知性派であり敬虔なカトリック教徒でもある彼女が、名も知れぬ田舎町の安っぽいレストランのウェイトレスを演じる。いかにも無教養で下品なウェイトレスを冒頭の数秒間で見事に造形してみせる演技と演出には、ほとほと感心させられる。そのスーザン・サランドン扮するルイーズがリードする形で、二人の女性の現実逃避的な週末旅行が幕を開ける。ロード・ムービーの始まりである。そして開始早々、最初に立ち寄った場末の飲み屋で、羽目を外したテルマがレイプされそうになったのを助けようとして、ルイーズは人殺しをしてしまう。能天気なロード・ムービーが、破天荒な逃避行へと転換するのだ。
逃避行の途中で、ヒッチハイカーを装ったケチなこそ泥が登場する。大ブレークする前のブラッド・ピットである。主役級のキャストの後にクレジットされている。それにしても、ブラッド・ピットのチンピラぶりでは見事だった。ちょっとイケメンで猫を被った優しさに騙されて、テルマはマンマとその手管にはまり、有り金をすべて盗まれてしまう。しかし、この災難がテルマをアナーキーへと脱皮させる引き金になるのだ。まるでリードギターとサイドギターが入れ替わるような感じで、ジーナ・デイヴィス演じるテルマがぐいぐいと物語を牽引し始める。ブラッド・ピットのチンピラから寝物語に教わった強盗のやり方をそのまま実践して雑貨店の売上げを盗む。追跡してきたパトカーの警官を銃で脅して、トランクに押し込めて逃げ延びる。この辺りのジーナ・デイヴィスのドライブ感は本当に爽快だ。スーザン・サランドンがギブソン・レスポールなら、ジーナ・デイヴィスはフェンダー・ストラトキャスターだと表現したら分かっていただけるだろうか(笑)。
テルマとルイーズが、ガソリンを満載したタンクローリーを連射し爆発炎上させたところで、物語はドラム連打のロックンロールのように興奮の絶頂を迎える。そこから一気にエンディングに向けて疾走するのだ。馬鹿馬鹿しいほどの数のパトカーとヘリコプターに追われ、二人を乗せて66年型サンダーバードは遂に行く手を断崖絶壁に阻まれる。大袈裟であるがどこか間抜けなアメリカ社会が、パトカーの数とヘリコプターに象徴されている。行く手を阻まれた二人の堕天使は、微笑みを交わし、抱擁し、口づけする。その瞬間、激しい演奏が消え、ギブソン・レスポールのギターから、甘くて深いディストーション・サウンドが静かな余韻となってフェードアウトする。そして、66年型サンダーバードが、羽を得たかのように断崖絶壁の空間に向かって跳躍する……。
『俺たちに明日はない』のラストでは、ボニーとクライドの身体が無数のマシンガンの銃弾に撃ち抜かれ、快楽にのたうち回るように二人が死んでいく。『テルマ&ルイーズ』では、サンダーバードの背に乗った二人が、白い翼の鳥に乗ったかのように、何も遮るものがない自由な空間に身を委ねて死んでいく。
どちらの作品も見終わった後に、浄化されたカタルシスが訪れる。社会の底辺の片隅で生きる人間が、社会の束縛から逃れ一瞬の自由を謳歌する。これが二人組の時には犯罪と呼ばれるが、百万人になれば革命と呼ばれるのだ。リドリー・スコットは、現代社会の絶望や空虚に風穴を開け、そこに吹く清涼な風を見せてくれた。まさに職人芸だ。