hiroshimitsumaki

人生が旅だとすれば、見知らぬ街角で出会った忘れられない人たちのような、日々の暮らしの中で心に触れた事柄を綴っています。

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マガジン

  • 一人百首:人生の春夏秋冬

    生活の中で折に触れて詠んできた短歌です。

  • フー流シネノート

    小学校3年生から60年におよぶ映画ファン。非常にかたよった個人的な嗜好を記録した自分自身のためのシネノートです。

  • 赤道を横切る

    祖父・三巻俊夫が昭和11(1936)年に台湾から鳳山丸をチャーターして南洋を巡った旅行記です。

最近の記事

あからみて駆け戻りける幼子はアポロの像に手だに触れずて

ポンペイの神殿に立つアポロの像は、ベスビオ火山の噴火で埋もれる前には、黄金の弓矢を携えていたと言われている。アポロの矢は、どんなに遠くの標的にも届くとされ、当たれば一発必殺、まさに「魔弾の射手」だった。そこから転じて、ポンペイの守護神として、アポロ神殿を造営し、弓を射るアポロ像を飾ったのだろう。 われわれ家族は、早春の南イタリアに到着した。ポンペイは、快晴でわれわれを迎えてくれた。 「アポロに挨拶しておいで」と娘をうながすと、恥ずかし気に近づき、像の近くまで行くと、一目散に駆

    • 障害の子ほど心に優しさの遺伝子持ちて生まれ来るらむ

      東京に居を定めて、毎朝最寄りの駅まで10分ほどの距離を歩くことになった。ビジネスマンなら誰しも似たり寄ったりだと思うが、昨日を振り返ったり、その日の仕事の段取りを考えながら、歩くことになる。まわりの景色と言っても殺風景なものだが、それでも季節の移ろいにつれて、路傍に花が咲いていたり、木々の彩りが変化したりする。しかし、それらに目を向けたことがどれほどあっただろうか。ましてや、感動など。 その駅までの通勤路で、毎日のようにすれ違う子供がいた。その子は、ダウン症らしく、ほとんどの

      • トラック野郎・故郷特急便:移動する解放区

        トラック野郎・故郷特急便 1979年 日本映画 フー流独断的評価:☆☆☆☆ 『トラック野郎』の主人公・星桃次郎の運転する一番星号。そのネーミングからして、ミレニアム・ファルコンではないか。星桃次郎は、大型トラック一番星号の運転席で、演歌を口ずさみながら、ある時はサイホンでコーヒーを淹れて優雅に飲んだかと思えば、ある時は七輪を持ち込んで餅を焼き、醤油の小皿にちょびちょび浸けながら食べている。そこは狭いながらも楽しい解放区である。まさに「移動する解放区」という概念だ。 『ト

        • 赤道を横切る:第20章 ボイテンゾルグ

          沿道は芭蕉、竹林、水田で台湾の田舎道と大差ない。近来キャツサバ(芋のなる熱帯低木)が幅を利かしている。ボイテンゾルグはバタビアより60キロ海抜265メートルにある都市で、人口約7万、「Out of Trouble」すなわち「無憂境」という意味であるとのこと、1745年総督ファン・イムホツフ卿の創建以来今日まで総督の所在地となっている。 市街には美しい並樹あり、一箇年中220日間は必ず驟雨があるという。兵営、市場、競馬場もあるが最も有名なるは植物園である。1817年ドイツ植物

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        • 一人百首:人生の春夏秋冬
          13本
        • フー流シネノート
          20本
        • 赤道を横切る
          21本

        記事

          赤道を横切る:第19章 バタビア

          10月25日、午前6時17分水先案内人乗船、午後6時50分バタビア着港。シンガポールより航程535カイリ、我々一行は上陸してスラバヤに向かうのでこの港湾もこれが見納めと早朝から甲板上に出て展望に忙しい。信号所に近くスックリと立った一本の椰子が南洋らしい印象を与える。やがてブリッジがおろされて、南洋倉庫の小笠原店長はじめ関係者が続々出迎えられたが、肝心の主催者側夜牛子眠をむさぼっているのか、一向姿を見せぬのでジリジリする、岡野氏を再三煩わして漸く南倉側と打ち合わせの一段となった

          赤道を横切る:第19章 バタビア

          われにとり花見とはただ一隅の桜に寄りて愛でることなり

          今年も桜の季節になった。一気に花を咲かせ、ほんの一旬ほどの後には、花吹雪となって散ってしまう桜。名所には多くの人が訪れ、満開の花を愛でる。本居宣長を待つまでもなく、桜花は日本人の美意識に深く根づいていると改めて感じる。 ただ、ふと思う。何百本もの桜がいっせいに花をつけている光景は、壮観でもあり、華麗でもある。だが、その桜樹の下、何万もの人々が押すな、押すなの行列を作っている風景。そこに、何とも言えぬ、居心地の悪さを感じるのは、僕だけだろうか。 『長屋の花見』でなくてもよい

          われにとり花見とはただ一隅の桜に寄りて愛でることなり

          M★A★S★H マッシュ:戦争の無意味さを描いた傑作

          M★A★S★H マッシュ 1970年 アメリカ映画 原題:M*A*S*H フー流独断的評価:☆☆☆☆ 『マッシュ』が公開されたのは、1970年。もう50年以上も前の映画だ。当時、高校1年生だった僕には、1970年という年がどういう意味を持つかなど、まったく分からなかった。分からなかった、というよりは、興味がなかった、というほうが正しいだろう。混沌とした世相の中で、思春期だか青春だか知らないが、ただ一日一日を生きていただけだ。 今にして思い返してみれば、1970年という年

          M★A★S★H マッシュ:戦争の無意味さを描いた傑作

          秋の花にぎわう中の銀木犀かのひとのごと目立たなけれど

          秋には、色とりどり数多くの花が咲き乱れる。 菊、薔薇、サルビア、コスモス、ダリア、金木犀……。 強い芳香をまき散らしながら金色に輝く金木犀。その傍らに隠れるように咲く銀木犀があった。 人の世も同じ。常に人の輪の中心にいて、明るく輝いている人もいれば、その人の輪の外に、目立たぬように立つ人もいる。 これは物想う秋だからだろうか。銀木犀のような人と最後の恋をしてみたい、などと思う。

          秋の花にぎわう中の銀木犀かのひとのごと目立たなけれど

          赤道を横切る:第18章 赤道祭

          10月23日、午前6時40分出帆、リオ水道へ向けて進行、海上極めて平穏、追々赤道に近づく。この機会において例によりマレー半島を顧み更にその全貌を検討してみる。 マレー連邦州(ネグリスムビラン、スランゴール、ペラ、パパンの4州)およびマレー非連邦(ジョホールおよびケランタン、トレンガヌ、ペルリスの4州)は北方シャム国境からシンガポールに至る半島で、面積136,236平方キロ(52,000平方マイル)人口350万人(一平方キロあたり25人)海岸線の延長1200マイルにおよんでい

          赤道を横切る:第18章 赤道祭

          いまを生きる:詩神が降臨する瞬間

          いまを生きる 1989年 アメリカ映画 原題:Dead Poets Society フー流独断的評価:☆☆☆☆ アメリカ東海岸北部のバーモント州にある格式ある全寮制学校ウェルトン・アカデミーに赴任してきた英語教師ジョン・キーティングの物語。『いまを生きる』は、ジョン・キーティングがウェルトン・アカデミーに在任した短い期間における、生徒たちとの交流を描いた作品だ。 ウェルトン・アカデミーは架空の学校だが、映画の中で描かれるバーモント州郊外のたたずまいが、限りなく美しい。吸

          いまを生きる:詩神が降臨する瞬間

          赤道を横切る:第17章 シンガポール鳥瞰

          商船会社シンガポール支店調査に基づく『御案内概要』によれば 英領マレー歴史年代記 1786-90年 ケダー(クダ王国のこと)より彼南島(ペナン島)を英人に割譲 1800年 ケダーよりプロビンスウエルベリ(ウェルズリー州(Province Wellesley)のこと)を割譲 1819年 柔仏(ジョホール)王との協約により馬拉加(マラッカ)獲得、なおラッフルズ・柔仏王との協約によりシンガポール、マラッカにおける英国主権を認めらる 1826年 ベラよりパンコル島とスムビラン諸島の

          赤道を横切る:第17章 シンガポール鳥瞰

          鼻たかき目立ちたがりの子のごとしアベノミクスの救いの無さよ

          安倍晋三は僕と同い年の昭和29(1954)年生まれだ。いや、もう故人となってしまったので、「だった」というべきか。 「妖怪」と呼ばれた稀代の宰相を祖父にもち、総理の座をも狙う実力者だった父の跡を継いで政界に迷い込んだこの男には、どうしようもない軽さがついて回った。それは、権力への妄執などでは説明がつかない何かだった。 父に追いつき、祖父を追い越したいという哀しい願望だったのか、さらに言えば、その底には幼い頃から不出来を揶揄され続けた劣等感がついて回っていたのではないだろうか。

          鼻たかき目立ちたがりの子のごとしアベノミクスの救いの無さよ

          赤道を横切る:第16章 シンガポール(第3日)

          10月22日、シンガポール滞在第3日は午前6時半集合、同7時よりシンガポール島内の名所巡りとなっていたので、連夜の寝不足を物ともせず、6時には全員朝食を済まして出発用意をしていると、意外にもこの日に限り交通機関総罷業【そうひぎょう:ゼネストのこと】のため約束の自動車が一台も集まらぬ。それは5年ぶりかに起こった電車とバスの総罷業で、今日中に解決困難との注進である。これが人事ならばニュース・バリュー100パーセントとして大々的に報道もするのだが、この場合それどころではない。やむを

          赤道を横切る:第16章 シンガポール(第3日)

          赤道を横切る:第15章 シンガポール(第2日)

          10月21日、午前中ジョホール往復の予定である。午前7時集合の触出で同7時30分出発は少々つらかった。中には付近のホテルに外泊しながら寝過ごして一行出立までに間に合わぬ連中もある。 以前は汽車の便による外なかったが、現在は舗装道路が完全にできている。郊外はゴム園などチラホラ見えるのに、阪神国道のそれの如くほとんどの人家が連続しているのに驚きながら間もなくジョホール州界に到着した。日本人会の有志が日章旗を翻して出迎えに来られた。当方も日章旗を先頭に立てて進んでいたので忽ち路上

          赤道を横切る:第15章 シンガポール(第2日)

          赤道を横切る:第14章 シンガポール

          10月18日、航海中、晴天和風なれどもウネリありローリングす。それはあたかもモンスーンが西南風と西北風の交錯する時期で逆風となったからであった。 10月19日、航海中、昨日同様、夕刻より稍々【やや】平穏となる。両日とも読書に暮らす。気温81~2度、一向南洋気分とならず涼しい涼しいと言い続ける。三度三度の食事が単調で格別の話題もなく、余興係も一向活動してくれぬ。船はシャム国境を過ぎて英領馬来【マレイ】にさしかかる。 10月20日、午前9時40分新嘉坡【シンガポール】海峡ホー

          赤道を横切る:第14章 シンガポール

          ひと時代終わり見とどけ濡れて立つ国会議事堂バスティーユのごと

          2015(平成27)年9月17日、僕は国会議事堂前にいた。東京は朝から雨だった。デモに参加するのは、ほぼ50年ぶりだろうか。しかし、この日、後の世では戦争法案と呼ばれることになるであろう「安保法案」が、参議院特別委員会で可決され、2日後の9月19日には、参議院本会議で可決されたのだった。 国会議事堂前は、デモ隊で埋め尽くされ、トリコロール(三色旗)を打ち振る人もいた。しかし、白亜の議事堂は、微動だにせず我々を見下していた。 1789年7月14日、フランス人民はアンシャン=

          ひと時代終わり見とどけ濡れて立つ国会議事堂バスティーユのごと