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赤道を横切る:第13章 シャム大観

暹羅【シャムロ:シャム、タイのこと】から遠ざかるにつれ、船中例によって参考書により此国を回顧してみたい。
シャムロはインドシナ半島の中央に占位する独立国で、総面積518,162平方キロメートル(約33,612平方里)、我国の77パーセントに相当する(台湾の14.4倍)。山岳では北部にあるドイアーンカー山2,576メートルを最高峰とし、河流ではメナム河が最も著名である。

歴史年代史摘要
1350年  アユテイアーに新王朝建設、タイ族南下して混血となりシャム族の源をなす
1596年  長崎商人アユテイアーに居留地を形成す。山田長政の活躍
1632年  日本人町夜襲さる
1767年  アユテイアー、緬甸【ビルマ】軍のために陥落
1782年  現王朝の祖チヤオビアー、チヤクリー盤谷【バンコク】にて登位
1893年  仏暹事件、湄公河以来の老撾【ラオス】を仏国に割譲
1907年  バツタムバンを仏国に割譲
1909年  ケランタンおよびトレンガヌを英国に割譲
1924年  日暹条約調印
1932年  革命起こり立憲君主国となる

我国との交流は後亀山天皇元中5年(1388年)までさかのぼることができるが、邦人が彼の地に渡ったのは16世紀の終末頃からである。御朱印船は元和寛永以来(17世紀初頭)50余隻を数えている。その日本町の位置はバンコクの北71キロメートル、メナム河本流に臨めるアユチヤ城外で盛時1000人以上2000人の邦人が移住したものと思われる。

山田長政は一時駿州沼津の城主大久保忠佐の轎夫【きょうふ:かごかき(家来のこと)】たりし事あり、慶長17年頃(1612年)渡暹、間もなく日本人の頭領となり、暹羅国に引き立てられ、1628年頃には同国最高の官位に上がった。

然るに、王位継承問題紛糾するに及び、長政は叛乱を鎮定して大いに武功を立てたが、結局忌憚【きたん:遠ざけられること】せらるるに至り。1629年六崑【リゴール】太守に封せられ、翌1630年(寛永7年)脚部負傷の際、侍臣(シャム人)が毒に混じたる薬品を塗布したるため遂に非業の最期を遂げた。彼の遺子オコン・セナビモク自立して太守となったが国人服せず叛乱を起したので、彼は六崑の町を焼き柬埔寨【カンボジア】に去った。山田長政以外の在住民も遂に振るわず、結局アユチヤにおける邦人の覇業全く成らず、鎖国を待たずして滅亡に至ったのは返すがえすも遺憾であった。

暹羅の気候は、乾雨両季を有すること南洋の通則に従う、雨季は4月末頃より11月の半、乾期は更に涼季と暑季に分かれ、涼季は雨季の終わりより2月半、暑季は2月半より4月末に至る。気温はバンコクにて平均27.7度。

人口は最近の統計不明なれど全国にてまずザッと1,200万人、内支那人45万人、人口密度平方キロメートル当り22~3人と推定せられる。

輸出品は米を大宗とし錫および錫鉱、チーク、その他木材、ゴム、家畜など4億バーツ、輸入品は食料品、錦織製品、金属製品、鉱油など5,500万バーツ。

前掲タイ国の「タイ」は自由人を意味する。シャム人の血脈にはどこかにこの細胞が流れているのではないか。建国以来その政体は終始専制主義で絶対自由を許されなかったが、最近立憲君主制に変革を見た。暹羅は西からは英国、東からは仏国に圧迫され、現にマレー半島の一部は英国に、ラオスその他は仏国に蚕食されながらなお独立国として現存しているのは必ずしも両国の緩衝地帯であるばかりではあるまい。即ちその民族的精神には天恵による生活安易に基づく暢気【のんき】さの他、何となく最後のものは許さぬといったある種の気概がないでもないような気持ちがする。山田長政が六崑の太守となった際もシャム人は長政がそれ以上進むことを喜ばなかった。

長政ばかりではなない。17世紀の後半、総理大臣にまでなったギリシヤ人コンスタンチン・フオルコンも、18世紀終末ビルマ軍を国外に駆逐した支那人ヒヤタクシンも共にシャム人のために殺されている。平素不得要領、優柔不断、いかにも無気力に見えるシャム人も決して油断はできぬ。昭和7年(1932年)の革命も少壮文武官を中心とする革新の一派が人民党という名の下に結束して起こったのだが、この人民党の綱領の中、主要なるものは平等と独立の二原則であった。平等というのは国内に特権階級の存在を許さぬと言うことで、これは憲法の規定により大体その目的を達した。かくの如く「タイ国」の後裔は今や自由人として目覚めんとしている。我々が蓄音器に吹き込んでもらいたいと申し込んだほど気に入ったスーパンの歌は、事実現代のシャム人にも大受けで大流行を極めていると聞いた。

シャムには、英、仏、米など各国人が顧問名義で重なる地位を占めている。事実上国際共同管理のような姿だ。ただしこれらの外国人顧問は、シャム国の進歩発達のために、シャム国民の福祉増進のために働いているのであろうか。否、本国の必要と利益とのために働き、かえってシャム国が大いに進歩発達し、資源が開発され、内容を充実した富強の国となることを阻止しているのではないか。その証拠にチーク森林の伐採事業は英国の会社のみ特権を有している。スズ鉱業においても英国の資本をもって経営しシャム国内に一つの精錬所をも設けることを許さない。シャムとシンガポールを連絡する鉄道は最初シャム側が広軌であったのを英国側が狭軌であるためその連絡上狭軌に改めさした。

日本とシャムとの関係は、英仏と大いに趣を異にする。シャムの資源が開発されると日本として必要なる原料品を求めることができる。チーク、スズの他、綿花、塩、搾油種子などの増産は最も望むところ、ことにその国力が増進して国民の購買力が高まれば日本商品の市場としても益々有望となる。日本こそシャムの発達を誠実に希望する唯一の国であるということをかの国の人々もこの頃になって大いに理解しつつある有様に見受けられた。

先年国際連盟総会において満州事変に関する勧告案が附議せられた時、シャム代表がその採決に危険を宣告した事があった。日本の朝野はシャムがアジア民族として日本に好意を寄せた結果と解釈し大いに歓喜したが、消息通の観測によれば、その勧告案の内容はリットン報告の結論を採用し、満州独立を認めず、原状回復も不可能、よって満州は名目上支那の主権下に各国人よりなる委員会により自治を行わせる事、すなわち事実上国際連盟勢力下における共同管理国たらしめんとするもので、シャムは満州問題について政治的にも経済的にも何ら関係なく、日本と支那との立場なども考慮する必要はないが、国際共同管理という思想には共鳴しかねる。他日、同じ方式が他の地域に及ぼさぬと誰が保証しうる、これは簡単に認容してはならぬ。さればとて敢然と反対もできぬと言うのはシャム国内における支那人の勢力に気兼ねする必要もあったからだ。

それはシャム人口1,200万人の内支那人は表面4~50万となっているが、事実は色々の意味で200万ないし250万にも上り、その大部分がシャムの商業を独占している。公然日本を支持して支那に反対する事は国内華僑の勘定を激発せしむることとなる。そこで棄権声明となったのだと言う。

最近日暹両国が追々親密となりつつあるは喜ぶべき事で、日本こそ真にシャムの福祉増進を希望する唯一の国であり、彼らもそれを諒解せんとしつつあるが、シャムは白人の重圧から免れても日本勢力の桎梏に悩むことを希望しておらぬ。また日本の英国に対する政策上シャムが利用されぬかと杞憂することも対日態度を足踏みさしている原因だと言う者もある。

シャムが日本側の専門家により綿花栽培の有望なることを知り、顧問に招聘して本腰にかかったのも日本が最も真剣にシャムのためを思うこと、最も利害関係が一致していることを如実に示して愉快である。万事この調子で進んでいきたい。

最後にシャムにおける支那人については将来深く考究を要する。シャムは外部的には英仏の圧迫を受け内部的には華僑の餌食となっている。シャムに関心を持つ人士はこの華僑の動向を無視してはならぬ。

以上は前暹羅駐在公使であった谷田部保吉氏がある席で講演せられたものの中から若干拝借し、我輩の管見をも差し加えた次第である。

写真は、山田長政像

三巻俊夫は、次の訪問地シンガポールへ向かう船上で訪問したシャムについてサマリーをしている。その勤勉さには、わが祖父とは言え敬服する。その国の地勢、歴史、経済、国民性、政治状況、国内外の環境などを手短にまとめる能力は、台湾銀行に勤務していた時に身につけたものだろうか。

日本とタイとは歴史的に浅からぬ関係がある。我々にとっても山田長政の名前には馴染みがある。安土桃山時代から江戸への転換期にシャムに渡り活躍した山田長政に思いを馳せている。海外雄飛の先駆けとして、ロマンを感じるとと同時に、異国に根を下ろすことの難しさや、最期の悲劇を述べながら、山田長政に、台湾で雄飛した自分を重ね合わせていたのかも知れない。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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