赤道を横切る:はしがき
はしがき
昨年【1936(昭和11)年のこと】11月15日の帰台以来、公私多忙、早速島内各地の講演会に引き回され、引続いて年末となり、落ち着いて材料整理も出来なかった。やっと年を越して1月10日からいよいよ起稿し、ようやく2月14日脱稿した。この間36日、その三分の二は宴会に妨げられ、不時の来客や用件もあって正味の時間は沢山ない。それがため毎夜午後12時近くまで執筆したから、我輩としては相当の労務であった。それでも、とにかく観察日記と随所随感を述べ尽くしたのは満足である。ただ引用の数字があまり新しい統計でないのとマチマチとなっている事だけは心苦しい。
航海日数は基隆帰着まで勘定に入れて48日、そのうち21日は完全に海上にあり、寄港地は18か所に及んでいるから、一か所あたりの滞在はわずかに一日半の勘定となる。何ぶん駆け足旅行で深く奥地にも入らず、全くの漫遊に過ぎないから、とうてい調査研究の時間はない。ただ最近の南洋を一瞥したという程度であるが、それでも我々一行の収穫は相当に大きかった。
近来どこからか「不言実行」という標語が流行している。言わぬは言うにイヤまさる、何も声を大にせずともその実を得れば良いと言うのだ。もとよりそれも一理ある。北海事変後の海口警備は誰がそうさせたのか。その結果、現に我々一行の上陸も禁止されたではないか、と言うべきところであるが、絶対沈黙もまた多少考慮の余地があるかも知れない。
日本としてはかくあるべきが当然にしても、それがやがて相互の福利増進に役立つべきことを認識させるためには、ある程度の宣伝も必要ではないか。とにかく日本は遠慮がちで言いたいことも言うことができなければ、結局は国家として損害を招くのではないだろうか。
本書では、努めて各国の政治工作や統治方針などの批判は慎んだつもりだが、時に例外もあるかもしれない。また、事実の誤謬や数字の間違いも保証の限りではない。大方の御叱正をいただければ幸いだし、その是正を期したいと思っている。
2月14日、七星山積雪の夜半
春楓子
『赤道を横切る』とは、僕の祖父・三巻俊夫が、1936(昭和11)年の10月から11月にかけて45日間の南洋視察旅行をした時の旅行記だ。貨客船鳳山丸を仕立て、参加者80名の団長として、現在の中国からベトナム、タイ、シンガポール、マレーシア、フィリピンなどを巡る旅だった。筆まめだった祖父は、その旅行記を翌1937(昭和12)年の7月に台湾新聞社から出版したのだった。
1936(昭和11)年という時代を思い返せば、二・二六事件が起きた年であり、翌年には日中戦争が始まり、5年後の1941(昭和16)年には太平洋戦争に突入し、10年も経たない1945(昭和20)年には、敗戦をむかえることになる。
祖父は大学卒業から40年、台湾の発展に一身を捧げ、自ら栄達を遂げたが、名誉も地位も富もすべてを失ってしまった。敗戦時には「帰化しても台湾に残る」と言い張り、台北に居残り続けたが、結局終戦翌年に最後の引き揚げ船で、家族と共に帰国した。戦後は、失意の中にあったが、穏やかに過ごしたと聞く。
今、『赤道を横切る』を読み返せば、大らかで楽天的でユーモアと余裕に充ちていることに驚きすら感じる。9年後に自らを襲う過酷な運命など知る由もなく。そこに人間の強さと儚さがある。さらには、「新たな戦前」とも評されるこの令和の浮世と、不気味な相関図が見え隠れする気もするのである。
それにしても『赤道を横切る』という約200ページの本を、わずか36日、実質12日間で書き上げるとは、三巻俊夫はよほど筆まめだったのだろう。橋本白水著『台湾の官民』という本の中で、三巻俊夫は事業家にしては文人の雰囲気を持つと書かれている。
文中、「北海事変」とは、1936(昭和11)年9月3日、広東省北海で商店を経営する日本人中野順三が店舗を襲撃した暴徒によって殺害された事件のこと。また、「七星山」とは、標高1120mの台北市で最も高い山のこと。「春楓子」とは三巻俊夫の雅号のことだ。