イングリッシュ・ペイシャント:身勝手に生きることが人間の解放区だ
イングリシュ・ペイシェント
1996年 アメリカ映画
原題:The English Patient
フー流独断的評価:☆☆☆
砂漠を舞台にした映画と言えば『アラビアのロレンス』がまず頭に浮かぶが、砂漠の美しさという意味では『イングリッシュ・ペイシャント』に登場する低空飛行の飛行機から空中撮影されたサハラ砂漠には格別の趣きがある。エロティックな曲線は、女体を髣髴とさせる。その美しさゆえに、中東、北アフリカ地帯は、西欧列強に蹂躙され続けたのではないだろうか。
『イングリッシュ・ペイシャント』の主人公、ラズロ・アルマシー伯爵も、砂漠の美しさに魅せられて北アフリカにやって来た身勝手なヨーロッパ人の一人である。サハラ砂漠の奥地で「タッシリ・ナジェール」のような古代岩壁画を発見しようとする探検グループの一員である。オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊と共に英国へと逃れた没落貴族だ。彼が完璧な英語を話せるのは、幼い時から英国のパブリックスクールで過ごし、オックスフォードかケンブリッジで中東の歴史を学んだからに他ならない。ヨーロッパの貴族階級にとって、国境などほとんど意味を持たないのだ。
ラズロは、同じ探検グループの一員であるジェフリー・クリフトンの妻キャサリンに恋をする。最初は、まったく身勝手な片思いである。要するに、ストーカーである。しかし、女性とは恋されることに恋をしてしまう悲しい性を持った動物なんだな。百回の愛の告白では通じなくても、千回目には想いが通じる……。そして、その瞬間から女の方が積極的になり、男は困惑する。こういう火がついてしまった身勝手な女って素敵だなー。男は脳で恋をし、女はそれに対して肉体で応える。そして、燃えるような一時期が過ぎると、女は男から離れて行く。ああ、なんと悲しき動物生態学であろうか(笑)。
話はこれで終わらず、キャサリンの夫であるジェフリーが、二人の不倫に気づいてしまう。紳士だったはずのジェフリーは嫉妬に狂い、妻を乗せた小型飛行機でラズロに神風体当たりを試みるのだが、それは失敗に終わり、ジェフリーは即死してしまう。キャサリンも瀕死の重傷を負う。ラズロは、キャサリンを古代壁画が描かれている洞窟に運び込み、彼女を横たえて、必ず医者を連れて迎えに来ると約束して、砂漠横断に挑戦する。
ラズロは、決死の覚悟で砂漠を横断するのだが、そこでドイツ軍に囚われてしまう。彼は、キャサリンの元に戻るために、イギリス軍の情報をドイツ軍に渡す。平気で国を売るわけだが、もともと英国は彼の母国ではない。そして、看守を殺して、護送される列車から逃げ出す。国家の情報を敵に渡すことも、看守を殺すことも、ラズロにとっては、悪でも何でもない。ただただ、キャサリンとの約束を果たすためだけの身勝手である。
キャサリンの元に戻ってみれば、彼女は亡くなっていた。その遺体を小型飛行機に積み込み、空に舞い上がるのだが、ドイツ軍の対空機関砲によって撃墜されてしまう。そして全身やけどを負い、記憶もほとんど失って、身元不明の「イングリッシュ・ペイシャント」と命名されてしまう。
これでやっと物語の半分が語られただけなのだ。物語の後半は、大やけどを負ったラズロを看病するハナの物語へと転換する。カナダからやって来たハナという従軍看護婦は、戦争にも、人生にも関心がない、無自覚な女性なのだが、ラズロとの交流を通して、成長して行く。前半の物語と後半の物語が、まるで対位法で書かれた楽曲のように、別々の旋律を持ちながら、時にお互いに共鳴し合い、時に不協和音の緊張を伴いながら、流れて行く。
ラストで、ラズロはハナの手によって安楽死させられる。甘美な恋の瞬間を秘めながら、身勝手を貫き通したラズロの生涯は、誰にも知られるじちなく忘れ去られて行く。そしてラズロの生は、ハナへと受け継がれ、彼女は異人種、異教徒との恋に走るのだった。
レイフ・ファインズは、幸運な俳優だ。『イングリッシュ・ペイシャント』の主演から20年ほどの時を経て、2014年には『グランド・ブダペスト・ホテル』の主演となった。ふたつの作品に共通なのは、名も知れずに生き、そして死んだが、心の中に自由を持ち続けた人間の物語だというところだ。彼には、そのような役柄を演じる使命が天から与えられているのだろう。もう老境に達した10年か20年後に、彼には再度、その使命が与えられるような気がする。予言しておきたい。