M★A★S★H マッシュ:戦争の無意味さを描いた傑作
M★A★S★H マッシュ
1970年 アメリカ映画
原題:M*A*S*H
フー流独断的評価:☆☆☆☆
『マッシュ』が公開されたのは、1970年。もう50年以上も前の映画だ。当時、高校1年生だった僕には、1970年という年がどういう意味を持つかなど、まったく分からなかった。分からなかった、というよりは、興味がなかった、というほうが正しいだろう。混沌とした世相の中で、思春期だか青春だか知らないが、ただ一日一日を生きていただけだ。
今にして思い返してみれば、1970年という年は、アメリカにおいては、ベトナム戦争がいよいよ泥沼化し、どう見ても「勝てない」どころか「負けるかもしれない」状況に陥っていた。日本では、大阪万博で国中がはしゃいでいたが、盛り上がりを見せた学生運動は下火になり、連合赤軍事件に代表される新左翼組織における凄惨な内ゲバやテロの火種が胎動し始めていた。
パックス・ロマーナに匹敵するパックス・アメリカーナに影がさしはじめた年。あるいは、第二次大戦後、敗戦国日本における何ともおめでたい復興期も終わりを告げ、万全と思われた戦後の体制に様々な矛盾が生じ、崩壊へと暗転し始めた年でもある。
時代の分水嶺であった1970年にふさわしい映画は何だったのか、と問われれば、今にして思い返せば、それは『マッシュ』だったのではないだろうか。
『マッシュ』は、朝鮮戦争時に前線に設置された陸軍移動外科病院 (Mobile Army Surgical Hospital:略称 M.A.S.H.)を舞台にしている。戦争を舞台にしていながら、戦闘場面は一切出てこない。病院からわずか数キロ先は最前線であり、ひっきりなしに負傷兵が運び込まれてくるが、物語の中では銃声も爆発音もいっさい聞こえてこない。
『マッシュ』とは、もちろん「陸軍移動外科病院」を意味すると同時に、英語の"mash"すなわちマッシュ・ポテト状態、どろどろにすり潰された「混沌」のダブルミーニングである。『マッシュ』の中では、徹頭徹尾「不道徳」が描かれる。主人公である三人組の外科医は、手術の腕は良いものの、軍規は無視するは、宗教は馬鹿するは、ありふれた道徳には背を向け、個人の自由を声高に主張する。
命令には従わず、階級は無視し、従軍神父の偽善性を暴露し、酒と女と賭博を謳歌する。その一方では、性的不能に陥って自殺まで思い詰めた同僚医師を、部隊全員で一致協力して助けようとする。毒薬だと偽って睡眠薬を飲ませ、目覚めたところで看護婦がベッドに入り、性的自信を取り戻させてあげるのだ。その毒薬を飲むシーンは、『最後の晩餐』そのものである。ひとりひとりのポーズまでレオナルド・ダ・ヴィンチであり、キリストの位置にいる自殺志願者の頭上には光輪(ニンブス)まで輝いているのである。
戦争は、絶対的な悪である。戦争という絶対悪の前では、軍規も宗教も道徳も、愛国心さえ無意味なのである。性的不能で自殺しようとする友を救う行為こそ、奇跡のように美しい。
公開当時『マッシュ』は、専門家や一部の批評家の評価は高かったものの、一般的には戦争を茶化した悪ふざけの作品と思われていた。僕も、そう思っていた。しかし、作られてから半世紀を経過した21世紀においても、『マッシュ』は燦然と輝いている。いや、その主張はますます重要性を増しているのだ。それは、ロバート・アルトマンの「預言」だったのだろう。
戦争ほど無意味なものはない。人ひとりの命の重さは、国家にまさる。個人の自由こそ、すべてに優先されるべきである。これらの「預言」を、『マッシュ』以上の説得力で叫んでくれた映画がどれほどあっただろうか。
監督ロバート・アルトマンにとって、『マッシュ』は最初期の作品だが、彼のキャリアを通じて『マッシュ』を超える作品は、結局撮れなかったと、僕は思う。