太陽を盗んだ男:我々は映画の神様の怒りに触れたのか
太陽を盗んだ男
1979年 日本映画
フー流独断的評価:☆☆☆
映画の神様は、長谷川和彦という才能あふれる映画監督に生涯で二本しか映画を撮らせてくれなかった。その二本とは、『青春の殺人者』と『太陽を盗んだ男』のことである。
映画の神様は、つくづく残酷だと思う。長谷川の才能は抜きんでている。二本の映画はいずれも、キネマ旬報のその年のベスト・ワン、ベスト・ツーにランキングされている。その長谷川をして、三十歳代の前半にこの二本の映画を撮った後、古希を過ぎる今日まで映画を撮らせてやらないのだから。
長谷川は、新宿ゴールデン街という荒野をあてどなく彷徨する巡礼者になってしまった。長谷川和彦が敬虔なる映画の使徒だったからこそ、彼の周りには映画の信者が集まったのだろう。沢田研二、菅原文太、池上季実子たちキャストが実に生き生きしている。長谷川という巫女を通じて、映画の神様が彼らに憑依したかのようだ。
沢田研二の演技は、はっきり言って下手だ。しかし、ここでは上手い下手を超越した鬼気迫る演技を見せてくれる。菅原文太の立ち姿や立ち回りは、すでに中年に達していたにもかかわらずシルエットがとても美しい。池上季実子にしても彼女の出演作の中ではベストの演技ではないだろうか。
映画の中で描かれる昭和50年代の「東京」は、無法地帯であり、解放区として描かれる。老人のテロリストが重機関銃と手榴弾で武装して、バスジャックし、皇居に突入して天皇に直訴を試みる。あるいは、東海村原子力発電所からプルトニウムが強奪される。国会議事堂のトイレに偽物のの原爆がしかけられる。押収された原爆を警視庁から再度奪還する。東京のど真ん中の公道でマツダ・サバンナが大カーチェイスを展開する。そして、来るはずもないローリング・ストーンズが初来日を果たす。まさに空騒ぎのパラダイスだ。
そしてエンディング。東京は現代の「ソドムとゴモラ」となる。神様は、東京の退廃と享楽を良しとはされなかったのだ。
映画の神様に尋ねてみたい。神様はどう答えるのだろうか。
たとえば、『太陽を盗んだ男』はあなたの預言だったのかと。
あるいは、我々に今こそ悔い改めよというメッセージだったのかと。
残念ながら、我々は神様のメッセージを理解することはできなかったようだ。その結果、東日本大震災と福島原発事故が起きてしまった。神様の怒りが聞こえるようだ。愚か者よ、まだ悔い改めないのかと。
僕は怖い。次に神様の怒る時には、その怒りは逆鱗に変わっているのではないだろうか。