ヴィヴィアン・マイヤーを探して:孤独な魂をめぐる奇跡
ヴィヴィアン・マイヤーを探して
2013年 アメリカ映画
原題:Finding Vivian Maier
フー流独断的評価:☆☆☆☆
奇跡の映画だ。映画の神様は、時たま悪戯っ気をおこしたり、気まぐれをおこしたりする。その時、神の指先からひとしずくがこぼれ落ちるように奇跡の映画が誕生するのである。
戦争、テロ、飢餓、難民、差別、殺人、汚職、日々垂れ流されるこれらのニュースを見続けていれば、人類に関して悲観論者にならざるを得ない。人類が、特に集団を形成したときに見せるこれらの愚かさは、われわれの遺伝子に組み込まれているとしか思えない。だから、逃れようのない絶望を感じてしまうのである。
そのような絶望の暗闇にあって、『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』は一条の光明となって僕の心に差し込んできた。ゲーテが『ファウスト』の中で、「孤独に帰れ――そこでおまえの世界を生み出すのだ」と語ったように。ヴィヴィアン・マイヤーは、その孤独の生涯を通じ、15万枚におよぶ写真を撮影し、誰にも知られることなく亡くなった。写真のほとんどは現像・焼き付けされることもないネガの状態のまま、放置されていたのだ。
ヴィヴィアン・マイヤーの生涯は、ほとんど謎である。若い頃はお針子だったと言われているし、その後の人生の大半も、住み込みの女中、家政婦、乳母のような生活だったらしい。そのような日常生活の中で彼女はカメラ一台で、市井の人々の日常生活を撮り続けた。芸術に関する高等教育を受けたわけでもなく、写真の撮影技術も自己流だった。
彼女がひとりで暮らしていた住み込み先で、異口同音に語られるのは、その偏執的な収集癖だ。いずれの住み込み先でも、新聞を天井まで積み重ねていたそうだ。
それでも、彼女の残した写真は皆美しい。アングルには天性のものを感じる。技巧的にも、古今の名画や、他の写真家から影響を受けたと思われるものがある。彼女は、孤独に暮らしながら、自分自身を教育し、その芸術性を高め、表現手段について試行錯誤を繰り返していたのだろう。
「なぜ?」 これは彼女に対する愚問だ。世の中で写真家と呼ばれる多くの芸術家は、自らの使命を放棄しているのではないだろうか。金がなければ生きていけない。そのためには写真を売らなくてはならない。写真を買ってもらわなければならない。自分の名前を知ってもらわなければならない。評論家に認められなくてはならない。できれば、人気者になりたい。ヴィヴィアン・マイヤーは、これらすべてを超越して生きたのだ。
ヴィヴィアン・マイヤーは、2009年の春、人知れずこの世を去った。孤独死である。彼女の残した膨大な量のネガ類がほとんど無傷で発見されたのは、ジョン・マルーフという無名の、多分に「オタク」的な若き歴史研究者によってガラクタ・オークションで彼女の遺品が落札されたという偶然の結果だ。ジョン・マルーフは、価値も分からぬままブログや写真サイトでそれらを公開し、その年が暮れる頃には評判に火がついたのだ。
神は、人類のあらゆる営為を天上から注意深く見守ってくださっていると思わざるを得ない。ジョン・マルーフは、ヴィヴィアン・マイヤーの福音を世に広めるために、偶然に神に選ばれた使徒なのだろう。映画『ヴィヴィアン・マイヤーを探して』は、彼女のゴスペル(福音)なのだ。
ジョン・マルーフ、この男もまた孤独だった。孤独な魂と孤独な魂が奇跡的に出会い、共鳴し合った。われわれが生きる21世紀は、国や企業にとどまらず、あらゆる場面で集団の一員であることが強制される。「個」に回帰してこそ、美しい希望の光が差し込むはずなのに。絶望から希望へ、否定から肯定へ、まるで写真がネガからポジへ現像されるように……転換してくれる奇跡の映画である。