映画『逆光』の「おわ恋」は結末から物語を照らす光の空白
物語で描かれる恋愛が好きです。とりわけ、終わってしまった恋の余韻が好きです。
終わった恋、略して「おわ恋」作品に出会ったときに記録するnote――のはずでしたが、好きになった作品を無理やり「おわ恋」の視点で読んでるだけかも。
内容に詳しく触れた部分があります。見出しに入れてるので、鑑賞前は避けてください。
『逆光』と出会うまで
2020年。Covid-19の蔓延によって4月、5月、6月と楽しみにしていた舞台が相次いで中止になりました。
画面を通さない生の催しに飢えていた私は、あの連続テレビ小説『カーネーション』の脚本家である渡辺あやさんが登壇されると聞いて横川シネマに足を運び、存在すら知らなかった『ワンダーウォール劇場版』を見ました。
そのとき「主演の須藤蓮が監督する映画に脚本を書きました。広島が舞台です」と話していたのが、映画『逆光』。
俳優須藤蓮初監督作品でありながら、脚本・渡辺あや、音楽・大友良英という豪華な座組みの映画です。
(へー、公開されたら見たいな~)とぼんやり思ったのを覚えています。それから、どこかのタイミングで見つけたSNSの公式アカウントをフォロー。7月にキックオフイベントなるものが催されることを知りました。
キックオフで感じた近さの価値
正式名称は「映画『逆光』公開記念 キックオフトークイベント~主演・監督 須藤蓮 × 企画・脚本 渡辺あや~」。主催は蔦屋書店。会場も広島LECTの蔦屋書店。なんと自宅の徒歩圏内です。自転車なら10分掛からない。
信頼できそうな座組みとはいえ、まだ見ていない、その日見られるわけでもない映画の有料イベントに参加する躊躇もありましたが、ほとんど悩まず参加を決めました。
ワンダーウォール良かったし、去年のトークショー面白かったし、いやいやだって、近いし。
チケット代より高い交通費を払わないと観客になれないエンターテイメントに夢中になって10年近くたちます。愛を秤にかけるのにも慣れました。
Covid-19が蔓延した今となっては、自分や他人の命を背負わずに済んでいたあの頃は呑気だったなぁと懐かしい気さえしますが、とにかく、遠いとか金が掛かるとか、そのことにまつわる葛藤は済んだ話だったんです。どうしても見たいものは見る。ちょっと気になる程度の催しはスルーする。それだけ。
それが開始10分前に自転車でLECTに乗りつけたとき、ちょっと気になる催しに気軽に参加できる新鮮さで心底ウキウキしたんですよね。近いってすごい!距離ってやっぱり大きいわ!って。身も蓋もないけども。
この日、頭の片隅にずっと(でもまず見てみないとなぁ、好きになれないかもしれないしなぁ……)という懸念があったけど、広島からプロモーションを始めたのは『逆光』ならではの試み。プロジェクトの一部です。
だから、今考えればこの時点でけっこう好きになってましたね。
キックオフトークイベントの話題は作品の内容に留まらず、映画業界の現在、『ワンダーウォール』のこと、尾道の魅力、広島で出会った人々、ふたりの不思議な師弟関係と多岐にわたり、映画を見ていなくとも十分楽しめるものでした。
なにより印象的だったのは、須藤蓮監督の迸る熱意。
昨年のトークショーで渡辺あやさんから聞いたフレーズを思い出しました。「いろんな企画を持ってこられるけど、その人の熱意が本物でないと、やっぱりどこかで立ち行かなくなるんです」
コロナ禍で立ち上がった映画『逆光』が、当然あったはずの様々な困難を乗り越え、公開までこぎつけた理由がわかった気がしました。
実際に映画『逆光』を見て
映画は2021年7月17日にシネマ尾道で封切られ、まず横川シネマ、呉ポポロシアター、福山駅前シネマモード、京都の出町座で公開されました。
そして12月18日にユーロスペース、2022年1月7日にアップリンク吉祥寺で公開予定です。
私が見たのは7月24日の横川シネマ。
70年代の尾道の夏とともに、美しい青年・晃から同性の先輩・吉岡へのじっとり湿った憧憬を味わう一時間。
いやぁ、よかったです。「脚本・渡辺あや」が私にとってのフックだったわけですが、起承転結の腕力より、五感に訴えかける力が凄かった。とにかく、無性に夏の尾道に行きたくなる作品でした。
あらすじ(公式サイトより)
1970年代、真夏の尾道。22歳の晃は大学の先輩である吉岡を連れて帰郷する。 晃は好意を抱く吉岡のために実家を提供し、夏休みを共に過ごそうと提案をしたのだった。先輩を退屈させないために晃は女の子を誘って遊びに出かけることを思いつく。幼馴染の文江に誰か暇な女子を見つけてくれと依頼して、少し変わった性格のみーこが加わり、4人でつるむようになる。 やがて吉岡は、みーこへの眼差しを熱くしていき、晃を悩ませるようになるが……
坂の街と四人の勾配
70分程度しかないこの映画の主な登場人物は、東京の大学に通う晃とその大学の先輩である吉岡、晃の幼馴染で看護婦として働いている文江、学生でも勤め人でもなさそうなみーこ、の四人。
序盤、この四人はひどくいびつに映りました。
吉岡を連れて尾道に帰省した晃は、道でばったり出くわした文江を無視します。そのふるまいに「田舎の女が恥ずかしいんじゃろ」と憤っていた文江も、晃に誰か女の子連れてきてと頼まれると「みーこくらいしかおらん」と返す。「みーこでいいよ」「えっ? だって、みーこよ?」。
ネコにエサをやっていて約束の場所に来なかったみーこは浪人と留年の違いも知りません。晃と文江の態度を見るに、同級生の間では変わった子として扱われてきたのでしょう。
一方、吉岡は晃が田舎だと卑下する尾道を「いいところだな」と褒め、家政婦のトミ、文江やみーこにも構えることなく自然体。彼に恋心を抱き、少しでも長く一緒にいたい晃が平常心でいられないぶん、超然とした佇まいが光ります。こんな人がそばにいたら誰しもクラッとするスマートな男。声もいい。
都会と田舎、男と女、勤め人と学生。
坂の街・尾道に似てきつい勾配があるように見えた四人の関係でしたが、一見しただけではわからなかった長所や短所、バックグラウンドや過去の断片が徐々に提示されます。
エンドロールを迎えたとき、当初の印象はすっかり払拭されていました。彼と彼女は対等な友人だし、彼女は魅力的な女の子。あの人は彼女の言った通り、ただのいい人じゃない。
キャラクターが立ち上がっていく過程のほろ苦い心地よさは映画『逆光』の大きな魅力です。
晃の恋の行方は?※ネタバレ有
さて、この映画の結末には(えっ、あれどうなったの?)と身を乗り出す大きな空白があります。質感をもって丁寧に描写されてきた晃の恋。その行方です。
お祭りの夜、吉岡とみーこが姿を消します。晃はふたりが懇ろになっているのではないかと気が気ではありません。幾人もの男女が縺れあういかがわしげな岩場にまで足を踏み入れたものの見つからなかった、らしい。
文江に「いなかった」と告げたのでそう理解しましたが、彼が何を見たのか、見なかったのか、見ようとしなかったのか、観客にはわかりません。
吉岡は夜中に戻りました。晃に「岩場で足を切った」と言い、救急箱を持ってくるよう頼みます。“岩場”。口には出しませんが、暗闇で救急箱を抱える晃のシルエットからは、悲しみがありありと伝わってきます。
そして、あくる日。
吉岡に電話が掛かってきます。どうやら、誰かと会う約束している。昼食後、晃は吉岡を誘います。尾道を離れ、広島市内や宮島に行きませんか、と。約束の相手から遠ざけようとしたのかもしれません。精一杯余裕ぶった口調がいじらしい。
しかし、背を向け畳に寝転がっている吉岡はだんまり。さすがにおかしいと思って様子を窺うと、「……腹が痛い」。彼は腹痛に襲われていたのでした。
家政婦のトミさんがそうめんで腹を壊すはずがないと首を傾げつつ救急箱を持ってきましたが、正露丸が見当たりません。昨夜、たしかにあったのに。
「どうしたって小一時間はかかりますけぇね」と言い残した彼女を見送った晃が部屋に戻ると、吉岡はまるで腹痛なんて忘れたように目を爛々と輝かせ、晃の顔を窺っていました。次第に大きくなる蝉の声、沈んでいく晃。暗転。
画面の下に沈んでいく晃、暗転ですよ。「画面の下」には、吉岡がいるんです。布団の上に。
(うまくいったん!? よかったね!!)と拳を握ったわけですが、次のシーンで、吉岡が尾道を去ったことがわかります。予定より早く帰った、らしい。文江を待ち伏せしていた晃の手には正露丸があり、忌々しげに投げ捨てようとする。
みーこの美しい歌声がかぼそく響くなか、晃は文江に、三島の「反貞女大学」を読んでよかったと思えるところがあったのだと一節を誦んじて、映画はエンドロールを迎えます。
涙ぐみながら素直に、訥々と語る晃の姿の可愛らしさといったらないんですが、とにかく彼は完全に失恋モードなんです。終わったものとして、吉岡への恋心を処理しようとしている。
え、あのあと何があったん? 私、終わった恋が好きなんで、そこらへん詳しくお伺いしたかったんですけど?!
前述したように、本作は五感に訴えかける映画です。起承転結よりも夏の眩しさが記憶に残る。
横川シネマからの帰り道。好きになれてよかった!と、いまさらクラウドファンディングに課金しながら、あの「おわ恋」とその空白をどう捉えればいいのか戸惑っていた、というのが正直なところです。
お釈迦様の掌の上
その後、Small house design lab. で開催された対話を目的とした展示「映画『逆光』展 <Dialogue>」で須藤監督に直接お会いしたとき『ワンダーウォール』の話題になりました。
京都大学吉田寮をモデルにした『ワンダーウォール』は、寮の存続問題に決着をつけませんでした。フィクションならではのifを提示してもいいはずですが、観客に預けることを選んだ。それを渡辺あやさんが「私からの重い相談」と表現されていたことに触れると、須藤監督が「逆光も似たところがある」とぽつり。「宿題みたいな?」「宿題ってわけじゃないんですけど」。
そんな話を伺ってから訪れた8月末のシネマ尾道で、もう一度『逆光』を見ることができました。楽しかった。結末の空白を頭に置いて鑑賞した結果、二度目は、より映画を深く味わえた気がしました。
それはくりかえし述べたように『逆光』が起承転結に頼らない、五感に訴える光と音の魅力を持っているからだと思っていたんですが、夏が終わり、秋が過ぎ、冬を迎え、『逆光』の東京での公開が近づく今になって、気付いたことがあります。
ただ映像が美しいだけなら、二度目は一度目よりつまらないはずなんです。少なくとも、飽きっぽい私には。でも、実際は二度目の方が楽しかった。
吉岡と晃になにがあったのかわからない。わからないから知りたい。その疑問があったからこそ、耳を澄ませ、目を皿にして画面を見つめた。見終わった後も、飴玉を舐めるように記憶を反芻した。答えを求めて。
――もしかして、はじめて見たときも、結末にあの空白があったからこそ、さまざまなシーンが意味を持って立ち上がり、記憶に刻まれたのでは……?
私が見つけたつもりだったあの山、よくよく見たらお釈迦様の指だったかもしれない、という……。嘘じゃろ。起承転結よりも尾道の夏の眩しさが~、じゃないんよ!!
結末から物語を照らす、まさに逆光
Canonのサイトに『光を味方につけて表現力アップ! -逆光写真の撮り方-』というページがあります。
このような場面は「逆光」で撮る
逆光は被写体の後ろから光が当たる状態です。逆光の特徴は、被写体の輪郭がはっきりと出ます。明るい背景に人物のシルエットが浮かび上がった写真を、見たことがあると思います。シルエット写真は、人物の輪郭がしっかりと表現されていますよね。また透明感やキラキラとした雰囲気が出しやすい光でもあります。
被写体の前から光が当たる順光や斜光と比べると被写体自体は暗く写ってしまいますが、撮影にNGな光ではありません。反対に撮り方次第では、人物や花などをもっとも美しく見せる光でもあります。
逆光は、被写体の後ろから光を当てる。輪郭がはっきりする、透明感やキラキラとした雰囲気を出しやすい光。撮り方次第で、人をもっとも美しく見せる光。
映画『逆光』の「おわ恋」は、結末から物語に光を当て、輪郭をはっきりさせ、人や街をもっとも美しく見せる空白。まさに、逆光そのものだったんです。
私、この映画が好きです。
ひとつの作品としても好きだけど、最近、観客という存在の加害性について考えていたのもあって、この映画の作り手が、映画作りにまつわる様々なことを楽しんでいる姿に心底安心するんです。(もちろん楽しくても、楽しいからこそ大変なことはたくさんあるでしょうが)
キックオフイベントに参加できて、近所の商店街で映画のイメージコーヒー(!)が買えて、実際に着用された衣装を見られて、監督や脚本家から直接話を伺えて、緊急事態宣言下の尾道にも行けて、本当に楽しい夏でした。たまたま広島で生まれ育っただけなのに、得しちゃった。
東京での公開に合わせてまたさまざまな企画が予定されているようなので、たくさんの人に見て、楽しんでもらいたいな。私みたいに。来年、また夏の尾道に行きたいです。
【2021/12/27追記】
遠くから見た映画 - スピンナヤーン https://yarnyarnyarn.hatenadiary.com/entry/2021/12/25/193813
私に勧められるがまま、東京での公開初日に足を運んでくれた友人の感想を紹介します。あっちから見たこっち。『逆光』のキャッチボール!