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「地域文化資本」から「リジェネラティブ・ツーリズム」を読み解く(後編)

quodの一連の活動で得た知見を活かして、地域の文化資本を研究・分析する「地域文化資本ラボ」。前編に続き、「地域文化資本」と観光の関係性、そこから見えた「リジェネラティブ・ツーリズム」の意義について書いていきます。

重要なのは民主的なグローバル化

前編で、企業のグローバル化によって再投資の循環が失われたと書いたが、観光のグローバル化は失われた循環を取り戻す重要な要素となる。ここで問われるのはグローバル化の質だ。

以前のnoteで触れた、安西洋之さんと中野香織さんの共著『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』の中の「大衆化と民主化」の話にもつながってくる。

おさらい的に少し本書の内容を入れると、「経済的に発展した国では、多くの人がモノやコトを低価格で公平に享受できる『大衆化』が実現したが、その一方で、感情が高ぶる、愛してやまないモノやコトとの出逢いの機会が失われ、焦りや寂しさを感じている。社会が目指すべきなのは『大衆化』ではなく『民主化』なのではないか」と書かれている。

ここでの大衆化とは上にあるものが下に降りてきて広く普及することで、民主化は上下そのものをできるだけなくして新しい領域を拡大していくことを意味している。

アクセスできる人数が増えたとか、カバレッジとして広がったというような観光のグローバル化は大衆化で、「地域文化資本」に基づいた観光のグローバル化は民主化だと僕は思っている。

大手旅行代理店による大多数向けの表層的なツアーが広く浸透したのは、ある意味大衆化ができたということだろう。機能的資本が観光の価値となる東京のような大都市なら、その方が向いているのかもしれない。

一方、民主化のターゲットとなるモダンラグジュアリー層は、経営者やアーティストなど、活動の場は違えど横つながりの共同体を形成していることが多い。彼らが「地域文化資本」から得た学びをそれぞれのフィールドで活かすことで、自地域も共同体も豊かになり、結果として人類全体の質が上がっていく。ここが大衆化との大きな違いである。

もう一つ重要なのは、民主化には自走して学び、アップグレードできる機構が含まれているということ。ある時から資本主義の行き詰まりが見えてきたように、今ベストだと思う方向に進んでいたとしても、地政学的なリスクや都市の変遷によって行き詰まる可能性はある。

大衆化は誰かがつくったものを薄めて広げただけなので、一度止まってしまうとその先には進めない。しかし本質を捉える民主化のプロセスを踏んでいれば、じゃあこの部分をちょっと変えてみる?というように価値を再生産できるのだ。このポテンシャルは、魅力ある「リジェネラティブ・ツーリズム」を考える上でも重要な要素になる。

地域も旅行者もウィンウィンに

少し枝葉になるが、海外の富裕層をターゲットにする際には、お金の流れについても考える必要がある。

例えば30日間日本に滞在したいとなった場合、多くの旅行者は、個人向けの旅行代理店に全日程のコーディネートを一括で依頼する。そのうちの5日間を地方で過ごすとしても、その土地に詳しくない代理店が予算内でプランを組むため、地域には宿代しか落ちず、旅行者は表層的な体験しかできない。お金の蛇口がある上流の代理店しか儲からない仕組みなのである。

これでは地域にとっても旅行者にとってもウィンウィンにはならないし、当然「地域文化資本」も活用されない。ある意味、この仕組みも大衆化の結果だと言えるのではないか。こうした課題の解決策を考えることも、失われた循環を取り戻す一助になると思っている。

高さがなければ広がりもない

以前「Staple」代表の岡雄大さんがあるpodcastで「まちづくりには、高さと幅の両方をつくるのが大事」と言っていて、その通りだなと思った。ある程度高さがないと、その下に広がる裾野の世界も狭くなる。広く価値を伝えるためには、質を高めることが不可欠なのだ。

「地域文化資本」を活かしたプロジェクトをつくることは、高さを積み上げていく行為だ。その質が高まれば高まるほど裾野の幅も広がり、特定の層以外にも刺さる価値が生まれると僕は思っている。

この仮説を後押ししてくれるのが、「水と匠」が運営している「杜人舎」だ。善徳寺内の研修道場を改修したホテルで、価格だけ見れば「楽土庵」よりも手頃だ。しかし、富山の豊かな精神性に触れるというテーマが共通しているため、「楽土庵」に泊まった富裕層が転泊することも多い。「杜人舎」から得られる深い学びと示唆は、よりラグジュアリーな「楽土庵」の価値と同等に捉えられているのである。

かと思えば、バックパッカーが頻繁に泊まったり、デジタルノマドが長期滞在したりもする。質を高く積み上げた結果、お金を持っている・いないに関わらず、文化的意義を重視する幅広い層に刺さっているのだ。

一つの物事や一人の人間が出せる価値なんて、正直大差ないと僕は思っている。それらが集まって何百年もかけて蓄積されることで、初めて高みに行けるのだ。しかしそうして生まれた「地域文化資本」も、消費するだけではいつか失われてしまう。この先のさらに何百年もの地域の歩みに貢献するために、僕らは手を取り合わなければいけない。「リジェネラティブ・ツーリズム」は、その有効なアプローチの一つになると思う。


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