「新・ラグジュアリー」から読み解くローカルの価値(前編)
quodの一連の活動で得た知見を活かして、地域の文化資本を研究・分析する「地域文化資本ラボ」。今回は安西洋之さんと中野香織さんの共著『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』を取り上げ、「地域文化資本」の観点から重要なポイントを深掘りしていきます。
共通項は「ブルネロ クチネリ」
まず、この本の概要は以下の通り(Amazonより抜粋・途中省略)。
僕がこの本に興味を持った理由は三つある。
一つは、この本の重要な要素として登場する「ブルネロ クチネリ」。以前noteにも書いた通り、十数年前に訪れたソロメオ村で感銘を受けたことが今の活動につながっている。
二つ目は、著者のお二人とちょっとした接点があったこと。著者の一人である中野さんは富山のご出身で、僕がDMCの取締役を務める「水と匠」の活動にも共感してくださっている方だ。以前、講師としてお呼びした「水と匠」のイベントで「『ブルネロ クチネリ』は新しいラグジュアリーの象徴的存在で、ローカリティに紐づいた豊かさがこれからのラグジュアリーにおける重要な観点だ」とおっしゃられていて、すごく腑に落ちた。その時にこの本を出版したことも教えてくださった。同じく著者の安西さんも「ブルネロ クチネリ」の記事をよく書かれていて、Facebookで共通の友人の投稿にコメントしたのがきっかけで存在を知り、他の著書も読ませていただくようになった。
三つ目は「楽土庵」などの「水と匠」のプロジェクトのメインターゲットがモダンラグジュアリー層だということ。文化的体験や意義を重視する新型ラグジュアリー志向のことをモダンラグジュアリーと呼ぶが、そこをターゲットにするのであれば、もっとラグジュアリーについて深く知っておくべきだと思った。
概要を読んでいただくとわかるように、この本はあくまでラグジュアリーの文脈なので、どこが重要かは読む人によって変わってくる。だからこそ今回、地域に紐づけて切り取ることに意味があると思っている。
これからいくつかのポイントに絞って掘り下げていこうと思う。
【はじめに】「大衆化」ではなく「民主化」を目指す
本書は以下の構成で成り立っている。
本講に入る前に、序文の「はじめに」から押さえておきたい。ここでは「経済的に発展した国では、多くの人がモノやコトを低価格で公平に享受できる『大衆化』が実現したが、その一方で、感情が高ぶる、愛してやまないモノやコトとの出逢いの機会が失われ、焦りや寂しさを感じている。社会が目指すべきなのは『大衆化』ではなく『民主化』なのではないか」と書かれている。
ここで重要なのは「『大衆化』ではなく『民主化』」という部分だと思う。大衆化は上にあるものが下に降りてきて広く普及することで、民主化は上下そのものをできるだけなくして新しい領域を拡大していくことだ。大衆化と違って民主化には「学び」と「自由な発意」がプロセスの中に含まれているため、仮に拡大が止まったとしても再起動できると著者は考えている。これは「水と匠」のターゲットであるモダンラグジュアリー層にも紐づく部分で、実際に「楽土庵」などを訪れる人々に刺さっているのは、富山の土地が持つ学びの要素だと感じており、通じるところがある。
また民主化の「上下をなくす」ことにも意味がある。例えば富山は「真宗王国」と呼ばれ、戦国時代には大名ではなく浄土真宗の住職などを中心とした自治が行われていた。ある意味、フランス革命より前に民主化されていたんじゃないかと言われるほどのエリアで、江戸時代には日本で一番識字率が高かったそうだ。かつ、今自分が富山で過ごしている体感としても、生活の質や文化レベルの高さを日々感じる。浄土真宗の信仰が根づき、早くから民主化されていたからこそ、トップのレベルだけでなくボトムの高さも実現できているのだと思う。
このように地方自治の文脈として考える場合には、併せて田林信哉さんの「『風土自治』のすゝめ」という記事もぜひ読んでいただきたい。
この記事には、地方自治の重要性を説く前に、地域の人々がなぜ自治をしたいと思うのか、そのためのエネルギーはどこから湧いてくるのかという議論から始めるべきだと書かれていて、「私たちは、四季を通じた自然や文化(=衣食住の姿)とそこに生まれる物語を共に感じる。こうした共感が、地域へのコミットメントへと昇華され、地域の担い手を育み、地方自治の主体を共創する原動力である」とある。つまり人単体ではなく、土地や自然をセットにして考えることが重要なのだ。
では本書に戻ろう。同じく序文には「大衆化で行き詰まった閉塞感を打破し、イノベーションにこそ希望や源泉があると捉える分野が『ラグジュアリースタートアップ』だ」とあり、ここだけ要約するとテクノロジーの進展が重要だという印象を受けるが、「世界の変化のスピードは速いが、衣食住に関してはあまり変わっていない」とも書かれている。ここで押さえるべきワーディングは、ストックホルム経済大学のロベルト・ベルガンティ教授が説く「意味のイノベーション」だ。
言い換えれば「方向を変えるイノベーション」で、例えばラグジュアリーの世界基準が「高品質」であるならば、その時代のニーズに応じた「高品質」を提供していくことがこれからのラグジュアリーに求められるのではないだろうか。ここで大事なのは社会的変化に伴う意味や文脈の変容であって、必ずしもそれ自体が「新しいもの」である必要はない。冒頭の中野さんのお話にもあった通り、ローカリティに紐づいた豊かさが、これからの時代における高品質の重要な要素になってきているということだと思う。
【第2・3講】仕事には「尊厳」が必要
次に押さえたいのが2講の「『Luxury』の反対語は『Poor(清貧)』ではなく『Vulgar(下品)』」という部分。「『下品』とは、本来のものではないものになろうとすること。不作法なこと。美意識が欠けていること。合理性を追求するあまりギスギスした状態になっていること」とあり、これは「アーツ・アンド・クラフツ運動」に触れた3講の「背後にある仕事の質を理解したとき、モノの意味も理解することになる」という文章ともつながってくる。要するに、つくる側だけではなく使う側のリテラシーも大事なのである。
単に目の前のものがいいかということだけに留まらず、どういった地域の資源を活用したものなのか、人間と資源のバランスが崩れない範囲で活用するにはどのような工夫がなされているのか、地域社会での歴史的な意味はどういうものなのか、そういったところまで使い手のリテラシーを高めていくことがラグジュアリーには重要であるということだ。
さらに、その後にある「自分の手の動かし方を知っている存在が、仕事の成果を前にして、自ら幸せになれる」という部分も重要で、僕が当時ソロメオ村で受けた感銘のルーツはここにあると思っている。
「アーツ・アンド・クラフツ運動」を主導したのは思想家のウィリアム・モリスで、彼が師事したのが評論家のジョン・ラスキン。二人の思想を継いでいるのが「ブルネロ クチネリ」を創業したクチネリさんだ。
彼らの考えの中で僕が強く共感したのは、3講にある「仕事には尊厳が必要である」というラスキンの思想。お金を稼ぐだけではなく、働くことで何らかの社会貢献をし、その人の尊厳が満たされることが重要なのだ。ソロメオ村に行った時、せっかくだからと「ブルネロ クチネリ」のショップでセーターを買った。そこで働いている方々に話を聞いてみたら、多くの人が地元出身であることがわかった。一人の店員は「自分が生まれ育ったまちから、自分たちがつくった世界レベルの商品を世界中の人に届けられて、その人たちの暮らしを豊かにしていることを誇りに思っている」と言っていて、すごく豊かな働き方だなと感じたことを思い出した。
また、職人の環境を整えることがいいプロダクトにつながるというクチネリさんの発想も素晴らしい。僕は学生時代、クリエイターやナレッジワーカーなどの「クリエイティブクラス」と呼ばれる人々の研究をする中で、いいクリエーションのためには日々の環境が重要だということを知ったが、ソロメオ村はそれを地で行っている。社員や村人のために、大きな食堂をつくったり、演劇場や図書館などの文化施設を整備したりして、村の暮らしを豊かにする。そうすることで人々の尊厳を守り、ブランドとしても確固たる地位を築いているのだ。これこそオーセンティックと言えるのではないだろうか。
マーケティング的な観点では自分と他者を切り離しがちだが、クチネリさんは切り離さない。どう売って稼ぐかという片輪に偏るのではなく、そのプロダクトがつくり手にとってどんな意味を持ち、土地に根づいたオーセンティシティを持っているかという両輪で考えることが重要なのだ。
この本ではLVMHなどのコングロマリットを「旧型のラグジュアリー」と定義しており、片輪だけで利に走った結果が今のLVMHの姿とも捉えられるが、著者は単に「新しいラグジュアリーの方が正しい」と言いたいわけではないと述べている。3講に「若い世代は、ラグジュアリー商品の価格にはサステナビリティのためのプレミアムがすでに含まれているのが当然と考えている」と書かれているように、ラグジュアリーが社会に果たす役目や、どの階層の人にとって意味があるかは時代とともに変わってきているため、正否ではなく、あくまで新しいラグジュアリーの方が広がりがあるという捉え方なのだと思う。
後編に続く