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「新・ラグジュアリー」から読み解くローカルの価値(後編)

quodの一連の活動で得た知見を活かして、地域の文化資本を研究・分析する「地域文化資本ラボ」。前編に続き、『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』を「地域文化資本」の観点で深掘りしていきます。

この本の概要は以下の通り(Amazonより抜粋・途中省略)。

▼いま人を動かすのは、「テクノロジー」ではなく「人文知」だ。
これから2030年にかけて、世界・経済・ビジネスなどを考える上で重要になるであろう考え方の一つとして、本書で取り上げるのが「ラグジュアリー」です。

今後、人々の心を動かすような「本当にほしいもの」は、テクノロジーが基礎にありつつも、歴史や文学、地理、哲学、倫理など「人文的な知識」がより主導しながらつくっていく時代になるのです。

その実践例の一つとして挙げられるのは、イタリアのウンブリア州にある小さな村・ソロメオを本拠に、地域の歴史と文化に根ざしたモノづくりを行い、創業50年も経っていないにもかかわらず「世界最高の品質」といわれ尊敬されるブルネロ・クチネリです。

「文化の創造が結果的に利益の源泉となっていく」という考え方と、クチネリをはじめとした実践の動きを、「旧来のラグジュアリーとの対比」「意味の創造」「教育」「文化盗用」「サステナビリティ」など多様な切り口から一冊にまとめるのが本書。
10の視点で「新しい世界」を読み解きます。

【著者】
安西 洋之(あんざい ひろゆき)
モバイルクルーズ株式会社代表取締役/De-Tales Ltd.ディレクター
東京とミラノを拠点とした「ビジネス+文化」のデザイナー。欧州とアジアの企業間提携の提案、商品企画や販売戦略等に多数参画してきた。デザイン分野との関わりも深い。2017年、ロベルト・ベルガンティ『突破するデザイン』(日経BP)を監修して以降、「意味のイノベーション」のエヴァンジェリストとして活動する中で、現在はソーシャル・イノベーションの観点からラグジュアリーの新しい意味を探索中。またデザイン文化についてもリサーチ中である。 著書に『メイド・イン・イタリーはなぜ強いのか』(晶文社)など。訳書にエツィオ・マンズィーニ『日々の政治』(BNN)がある。

中野 香織(なかの かおり)
著述家/株式会社Kaori Nakano 代表取締役
イギリス文化を起点とし、ダンディズム史、ファッション史、モード事情、ラグジュアリー領域へと研究範囲を広げてきた。日本経済新聞など数媒体で連載を持つほか、企業のアドバイザーを務める。著書『「イノベーター」で読むアパレル全史』(日本実業出版社)、『ロイヤルスタイル 英国王室ファッション史』(吉川弘文館)、『モードとエロスと資本』(集英社新書)ほか多数。東京大学大学院博士課程単位取得満期退学。英ケンブリッジ大学客員研究員、明治大学特任教授、昭和女子大学客員教授などを務めた。
【目次】
はじめに
第1講 「新しいラグジュアリー」の時代は静かに始まっている
第2講 「旧型」のラグジュアリー
第3講 新しいラグジュアリーと「意味の創造」
第4講 ラグジュアリーとロマン主義
第5講 日本のラグジュアリー
鼎談 最先端から見える「ラグジュアリー」の向かう場所
第6講 「ラグジュアリーマネジメント」が教えるもの
第7講 文化盗用 ――文化的な植民地からの解放
第8講 「アート」が持つ意味
第9講 サステナビリティをラグジュアリーから見る
第10講 もうひとつのあり方、もうひとつの視点
おわりに

新・ラグジュアリー ――文化が生み出す経済 10の講義 (Amazonより抜粋・途中省略)

【第5講】民主化が社会を前進させ、質を向上させる

前編では3講までのポイントに触れた。続く4〜7講では、5講にある「新しいラグジュアリーの要素は購買者にも深い意味を与えること」という推測に注目したい。これは前編の冒頭で触れた「民主化には『学び』と『自由な発意』がプロセスの中に含まれている」という点にもつながる。

例えば、石見銀山の銀でつくったスプーンが売られていたとする。石見銀山では江戸時代に導入された政治システムによって安定的な生産が可能になり、一部の人のためのものだった貴重な銀を使うカルチャーが地域にも根づき、気候風土と相まった発展をしてきた。そうした物語が全て一本のスプーンに込められていると気づいた時、購買者は深い学びを得る。そしてその体験が示唆となり、自分だったらこういう場所でこんなスプーンがつくれるかも?といった自由な発意のプロセスにつながる。この話はあくまで仮説だが、社会の前進と質の向上のためには民主化が一つのカギになることが見えてくる。

前のnote記事でも書いたが、富山の「水と匠」での活動の中で感じるのは、その地を訪れた人にとって、学びがあることが価値になっているということだ。その土地ならではの美しい景色を見たり、美味しい食事や素敵なものに触れて心が動く。それが「地域文化資本」であることを知り、背景にある地形や風土、社会構造などを知ることで学びが生じる。そして、その学びが日々の暮らしや仕事、さらには今後の生き方の一つのヒントになる。

「観光」という言葉に込められている、「光」を「観る」ということの先には、観光に訪れた一人ひとりの地元の地域にもその「光」が伝わり、社会の質が上がっていくというプロセスまで含まれているような気がする。

【第8・9講】風景に責任を持つことがサステナビリティの本質

8〜10講では、特に9講に注目したい。何点かあるが、まず一つは「継ぐべき文化遺産とは社歴にあるのではなくコミュニティにある」という部分。ここでは1981年創業のイタリアのピアノメーカー「Fazioli(ファツィオリ)」を例に挙げ、響板の材質にバイオリンの名器・ストラディバリウスが使ったのと同じ森の木を採用したり、創業者が自ら出荷する全てのピアノの最終チェックを行うなど、尋常ではない質へのこだわりが「高級ピアノといえば老舗」の既成概念を覆したと書かれている。

多くの人は長い間敬意を受けてきたモノやコトがラグジュアリーの価値をつくると思っていて、わかりやすいのが社歴だが、必ずしもそれだけが重要なわけではないということだ。逆に言えば、地域の人々なり企業なりが、その地域の文化資本をしっかり引き継ぎ、育て、繋いでいくことが非常に重要であることが示唆されている。

さらに「ファツィオリ」のくだりにある「質を確保するのを優先して無理な事業拡大をしないことが、結果的にサステナビリティある経営をもたらす」という部分も重要だ。人口2万人の都市でピアノ製作を行う「ファツィオリ」が従業員に求めるのは「ピアノをすでに弾いているか、あるいは弾くのに情熱を傾ける人」で、その条件で雇えるのはおよそ50人。木材を寝かす時期を勘案すると、50人で製作できる年間台数は130台。これは年間3000台の「スタインウェイ」と比べても桁違いに少ない。質の高さと深さの追求が、意図せずサステナビリティを生み出しているのだ。

ここでは「グリーンウォッシング」についても触れられていて、世の中でサステナビリティが流行っているからマーケティングの観点でそれをやるというのは、全く本質的ではないことがよくわかる。僕も日本政策投資銀行で働いていた時に、不動産のサステナビリティの取り組みを主導させていただいていた時期があり、「グリーンボンド」や「サステナビリティボンド」のような金融商品を世界の投資家に売りにいくロードショーを行った際に実感したことがある。投資家側にも2種類いて、一つが本当に理念を持ってサステナビリティを掲げて投資している層で、もう一つが単に他社との違いを出すべく、今流行になっているサステナビリティをマーケティングのフレバーとして使っている投資家。話せばすぐにその違いがわかってしまうのだが、一方で前者の投資額より後者の投資額の方が断然大きかったりして、社会の流れになるには後者側も大事ではあるという構造に触れ、何とももどかしい思いをしたことがある。この経験を「ファツィオリ」の話と合わせて考えると、個人的に示唆深いものがある。

また行政の区域ではなく、土地や土壌、景観、歴史、文化、伝統、地域共同体をカバーしたアイデンティティを共有する空間の広がりである「テリトーリオ」というイタリアの考え方にも注目したい。本書では農家が民宿を経営して農産物以外でも収入を得る「アグリツーリズモ」が例に挙げられ、「農村は農産物のためだけに存在するのではなく、地域の自然環境を維持し、そこに住む人の文化アイデンティティを育む拠点である」と書かれている。これはまさに「地域文化資本」を共有するエリアであり、行政区分などのテクニカルな要素よりも、自然環境や文化的コンテクストを重視する考え方は、quodや「水と匠」、白樺湖での取り組みにも紐づいている部分だ。

さらにクチネリさんが「自分はこの風景の番人である」と語っているように、「『ブルネロ クチネリ』がソロメオ村の風景の美しさに責任を持ち、それによって従業員やテリトーリオの人々の文化アイデンティティに貢献する流れをつくっている」という点も押さえておきたい。これこそがサステナブルな責任の果たし方で、地域性とラグジュアリーを結びつける重要な考え方でもあると思う。
「水と匠」の「楽土庵」は、散居村を保全するための活動の一環としてアートホテルを運営しているが、この取り組みによって散居村という景観が持つ価値を実感した。また白樺湖のプロジェクトを通して、湖とその背景にある高原の風景も、実は山焼きなどをしながら人々が自然に手を加え続けて維持されてきた美しい景観であることを知った。
また富山に移住してから、自然というものは、登山をしたり、海で泳いだりといった直接体験しなくても、単に眺めているだけで自分の心理状況や日々の幸せに大きな影響を与えるものだということを痛感している。ましてや幼少期においては、美意識や空間感覚にも多大なる影響を与えるだろうことを、我が子を見ながら感じている。そして、それらを地域の人々が共有していることも、一つの大きな「地域文化資本」であると思っている。

もう一つ、ラスキンの経済観・人間観の「生産されたものを適切に使用する勇気ある人がいて初めて富になる。ここでの勇気とは、知的な権力を大胆に発揮して、共同体のメンバーのために挺身する気概や胆力を指す」という部分も重要だ。「大量生産・消費をグローバルに効率化することを最優先する社会は壁にぶち当たり、人々は『もうひとつのあり方』を探し求めている」と続き、これは冒頭の大衆化と民主化の話にもつながってくる。経済性だけではないもう一つのファクターとして、つくり手と使い手双方の尊厳が必要なのだ。

日本の歴史を振り返ってみても、大名や旦那衆などのように、地域文化を使うことで支えてきた側面もある。グローバル化の中で、段々と地域オリジンの会社も地域性との紐づきが薄れていき、地域の文化を支えるカルチャーが一時期薄くなってきたタイミングもあったように思う。しかし、また最近は企業が地域への投資を積極的に取り組む事例が増えてきたと感じている。quodが地域の名士企業と組んで「地域文化資本」を活かしたプロジェクトに取り組んでいるのも、ある意味、現代においてその構造を取り戻したいという思いがあるからだ。

利己主義を突き詰めた全体的な社会システムではなく、共同体としての利他的な考え方を中心に据えること。かつ、時間軸の概念をプラスすることも重要だ。前後するが、8講では「ブルネロ クチネリ」のユニバーサル図書館について触れられている。この構想は1000年単位の超長期的な話で、クチネリさんも自分のためだけだったらきっとこんなことはしないはず。もっと先の子孫に向けた、時間や空間を超えた営みまでもが含まれた構想なのだ。「地域文化資本」を考えていくには、一世代だけの話ではなく、100年単位で過去を振り返り、100年単位で未来に思いをはせることが大事なのだと思う。

【おわりに】「地域文化資本」を形にし、循環させていく

最後に押さえたいのは、締めの「おわりに」に書かれている「人文学は『プロセスそのもの』に意味があって、内側から獲得されたゴールには唯一無二の『正統性』(authenticity)がある。生涯にわたり多くの場面で応用可能な創造の源になる」という点。即戦力とは言えない人文学はこの30年で衰退したが、社会が変容するタイミングにこそ復権すると著者は考えていて、これは地域文脈にもつながる部分だと思う。

また「ブルネロ クチネリ」のオペラニットの話で、「30時間以上もかけて手作業で仕上げられた迫力ある存在感は、機能や価格といった現実的な基準を無意味にする。尊厳を大切にされた職人が、豊かなローカル環境の中で、労働の喜びを感じながらつくり上げた商品が、心を揺さぶるラグジュアリーを生み、土地に根ざした価値とイタリア文化への敬意を生み出す」という部分も、地域性とラグジュアリーを結びつける上ですごくわかりやすい。

これまで押さえてきた話を以下に総括してみた。

豊かな環境で働くことがつくり手の尊厳を高め、その結果プロダクトやサービスがよくなる。かつ、使い手側のリテラシーも高めるために共通のコンテクストのストックをつくっていくことが重要である。寒い土地ならではの生活様式や、湿度の高い地域だからこその工夫など、それが地域性に根づいた合理的な文脈であれば、時代を超えて解釈され、富として積み重なっていく。これこそがオーセンティシティを備えた「地域文化資本」になっていく。

quodが真に目指すのは観光資源のコンテンツ化ではなく、地域の価値を再定義して循環する構造をつくり上げていくことだ。そして同時に、何が「地域文化資本」であるかを人々が理解できるように形にしていくことも重要だと考えている。例えば「ブルネロ クチネリ」であれば、その生産背景にある村の暮らし、文化的価値、生活哲学などが「地域文化資本」だとわかる。形が見えてくると、事業の資本としてどう活用できるかが考えられるようになり、そこから生まれた利潤をまた「地域文化資本」に投資することができる。

まだまだ自分たちも手探りであるが、そんな循環を実現するため、「地域文化資本ラボ」の活動をより充実させていきたい。


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