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1-1 新解放区工作の重心

(以下は杜润生《杜润生自述》人民出版社2005の翻訳である)
(写真は心光寺山門)

新区の工作重心についての討論

p.1  50年以上前の1947年6月、劉鄧大軍は中原にまっすぐ南進していた。わたし第一は軍に従い出発し、新たに成立した中共中央中原局に配属され、秘書長に就任した。この時私は34歳だった。

2年後(1949年5月)、中原局は華中局に改組され、私は引き続き秘書長を担当した。最初の指導者は鄧小平だったが、間もなく林彪に代わった。当時中央は「二野」は西南に、「三野」は華東に、「四野」は華中に向かうことを決定した。鄧子恢は「三野」を離れて華中にとどまっており、李雪峰と私は「二野」で残された人間だった。華中局の組織(班子)は、三方面の人から編成され、林彪が第一書記に就任。罗荣桓(ルオ・ロンフアン)が第二書記、鄧子恢が第三書記、李雪峰が組織部長に就任した。華中局の管轄は、有河南、湖北、湖南、広東、広西、武漢市六省一市。下方には叶剑英(イエ・チエンイン)を書記とする華南局があり、広東と広西の両省を分担管理していた。

新たに設立された華中局は、商丘において、第一次会議を開催した(1949年6月)。その重要な内容は、中共七届二中全会文件の伝達であった。全会参加したのは鄧子恢だったので、彼が伝達した。二中全会決議は、今後の工作の重心は農村から都市に転じられる、都市は生産発展の中心となる、と謳っているが、これは人々の注意を引く見解だった。

当時、たまたま林彪などの人々が北京から南下し河南商丘に来たのだが、このとき私と林彪とは初めて顔を合わせた。ある日の夕食後、私と林彪は散歩に出かける約束をした。夕日が斜めに照らす中、我々は黄河の堤防(大堤)を散歩した。彼は、七届二中全会の伝達に対して、皆さんのどのように思っているのか(大家有什么反映)と質問した。一つ明確にされていない問題がある、と私は言った。中央が今後工作の重心が都市にあるというのは、その含意は、都市工作を中心とするという意味なのか、都市に指導機関が置かれることで、都市が農村を指導する中心になるという意味なのか。これまでは農村が都市を包囲した。今は都市が農村を牽引(帯動)するのか。農村にまだ残る反封建の任務は必ず成し遂げねばならず後回しにできないので、明白具体的工作を着実に進める必要がある。

林彪もまたこの問題を考慮していたところだと言った。彼の理解では二中全会は、都市工作を中心とするのか、あるいは都市が工作の中心になるのか、はっきりさせていない。理屈(道理)に従うなら、都市が中心になるとするべきだ。彼は、漢口に到達して以後、我々が直面しているのはまさに広大な新区であり、つまるところ、工作の重点は都市にあるのか、あるいは農村にあるのか?と言った。長期的にみれば、基本的には都市が農村を牽引すると言えるが、眼前にまだまず解決するべき農村問題、農民問題、土地問題があり、それゆえ工作の重点はまず農村に置かれるべきだ。彼が見るところこれは「どこであれただまず足で前に進む」といった類の問題である。もしも農村がまだ封建勢力に支配されているなら、都市と農村は二種類の異なる勢力により支配されていることになり、これは多くの矛盾を引き起こすことになるだろう。二中全会の決議の主題は戦略の転換であり、提出している問題は多面的だ。華中は新区にあり、民主革命を完成するという残された任務は、当然我々の注意を引き起こすし、能力配置(力量部署)を考慮しなければならない。

私はこの問題提起は大変時を得ており、かつ重要だと感じた。その日の夜のうちに私はこの情報を李雪峰と鄧子恢にさっそく伝えた。二人はともにこの考慮に賛意を示した。

漢口に達して間もなく、華中局は正式に業務を開始した。最初の会議で林彪は彼の意見を述べた。まず農村の陣地を強固に固めるべきである。このことは工業問題と商業問題の解決について、政治上の工農連盟の建設についていえ、すべての方面において主動地位を占めうる。これを聞いて、一同は皆賛意を表明し、中央に指示を求めることを決定した。

私は林の意見に従って指示を求める原稿を起案したが、その大意は、全国から、戦略上から見て、今後の工作重点は都市が農村を指導することにある。都市に工商業センターを建設することにある。しかし具体工作の順序からすれば、新区は当面、農村工作を十分行い、封建残余勢力そして国民党残余勢力を粛清し、農民の土地問題を解決する必要がある。基層において党を建設し政治を行い、人民政府の基礎を固める。これこそ民主革命で残された問題の完成である。まず工作の重点を農村に置く。これは経済上、政治上、ともに必要である。このため特に中央に対し指示を求める報告とし、主席と中央に指示を仰いだ。報告が上申されたあと、毛主席と党中央はとても早く返電し、同意を示し、他の大新区もまたすべてこの例に倣うことを求めた。

土地改革問題

間もなく林彪は漢口を離れ南下指揮部隊作戦に行ってしまい、のちには病を得て北方で闘病する。彼は華中局にあって、地方工作方面において、華中軍政委員会を招集し、最初の報告をしたことを除くと、主要には上述したところのこの件で大事なことを行ったといえる。

ここから各省の同志は皆それぞれの農村に入り、条理に従いチェーンのように仕事をして、都市に集まることはなかった。1951年末になって毛沢東が、中南局(華中局は1949年12月に中南局と改称された)の報告への公開意見(批语·)の中で、重ねてつぎように言っている。「各中央局と各省区党委員会に、中央が提出した土地改革完成情況により適切な時期に省クラス以上の主要な指導方向を都市及び工業方面に移すとの方針を無視することを求めたい、また1952年の土地改革工作の指導は緩和されている。もしそのようにしたら、誤ることになる。」(『建国以来毛沢東文稿』第二冊566頁)全国的にみれば、地方工作の重心はなお農村にあった。

林彪が南下する前に、私は鄧子恢、李雪峰と相談済の意見を林彪に話している(告诉了他)。土地改革は3段階に分けることが必要だ。第一歩は、地代と利息の引き下げ(減租減息)、地主の悪行を清算し(清匪反霸)、政治局面を打開し政治優勢を樹立し、政権の基礎を建設する。第二歩は土地を分配する。過去の受けた苦難を訴える闘争(诉苦斗争)と土地分配を結合する。幹部と群衆は同じものを食べ、同じところに住み、同じ労働をして、積極分子を発見する。第三歩は組織を建設し制度を建設し、土地改革を再度検査する。林彪はこれで進めてよいと認識した。

商業に頼る問題

もう一つ別の談話の中で、林彪は言った。農村が土地改革をするのは、工作の重点である。経済の回復は何に頼ればよいか?商業をしっかりつかむべきだ。彼は言った。レーニンが亡くなる前、かれは新経済政策を提出した。農民は軍事共産主義を受け入れることはできないし、余剰食糧徴収制(余粮征集制)も受け入れることはできない。農民が受けれることができるのは、等価交換である商品経済であると。レーニンは消費主体の合作社の組織化を主張し、それを社会主義に向かう時期の最重要な過渡形式だと考えていた。このことから林彪は、商業をしっかりつかんで都市と農村の交流を回復することを思いついた。
→白石さんたちの訳(農村漁村文化協会2011年p.41)林彪によれば、レーニンは死ぬ前に新経済政策を提起したが、その際、レーニンは、農民は軍事共産主義も、余剰食糧の徴発制度も受け入れないが、商品経済や等価交換は受け入れると指摘したという。レーニンは、それゆえ、購買・販売を主とする合作社を組織することを主張し、それが最も重要な社会主義への移行形態であると考えていたのだ。そこで林彪は都市と農村の断絶を回復するには商業というポイントを抑えなければならないと考えるに至ったというのである。

当時、鄧子恢もまた都市工作ではまず商業を手に入れることからだと提案した。彼は、ただ工業に頼るということは、焦ってすることではない(缓不济急)と考えた。まずは商業をつかむことであり、商業が盛んにさえなれば、都市と農村内外の物流(畅通),経済はすぐに活発になる。鄧子恢は自ら起草したが、中央は全く無反応だった。胡乔木によると鄧子恢の意見を受けたのは劉少奇で、劉少奇は不支持を表明し、鄧は「資産階級の足元にすりよっており」「資産階級の圧力に屈服している」。10年後これはさらに鄧子恢の罪名の一つになった。

このようではあったが(尽管如此)中南局会議は「都市工作は第一に商業をつかむことにあり、第二には民主改革をつかむことにある」との決議を行った。後者は李雪峰が提出したもので、その意味は、都市の中の旧勢力(封建把头)やヤクザ(黑社会分子)を取り締まるということであった。これは当然また大変重要な問題だった。

当時林彪は『ソ連共産党史簡明教程』をちょうど読んでいて、多くの思想(理念)は同書に由来するものだった。
→白石さんたちの訳(農村漁村文化協会2011年p.41‐42)実を言えば、当時の林彪はちょうど『ソ連共産党史簡明教程』という本を読んでいたところであり、彼の述べたことの多くはこの本に由来するものであった。

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福光 寛  中国経済思想摘記
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