小石川傳通院
福光 寛
永井荷風(明治12年1879-昭和34年1959)は随筆「傳通院」(明治42年1909年頃)において、パリにノオトルダム寺院があるように「私の生まれた小石川をばあくまで小石川らしく思わせる」るものは「あの傳通院である」としている。
賛美の言葉が続く。「滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの傳通院である。」「傳通院の古刹は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありまた中心点であろう。」
徳川家康の生母於大の方がこの地に埋葬され(慶長3年1603年)、壽経寺が置かれたのがこの寺の始まり(無量山壽経寺)。その後、千姫(慶長2年1597-寛文6年1666)もここに葬られた。残念なことに伽藍を第二次大戦ですべて焼失したので、本堂や山門は近年のもの。お墓は昔のものが残されている。
夏目漱石(慶應3年1867-大正3年1916)の「それから」(明治42年1909年)や「こころ」(大正3年1914年)に登場することもよく知られている。
「士官学校の前を真直に濠端へ出て、二三町来ると砂土原町へまがるべき所を、代助はわざと電車路に付いて歩いた」「牛込見附まで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影を認めた。代助は夕飯を食う考えもなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。約二十分の後、彼は安藤坂を上って傳通院の焼け跡の前へ出た。大きな木が、左右から被さっている間を左りへ抜けて、平岡の家の傍まで来ると」(「それから」(1909)より)なお漱石がここで述べている火事は明治41年1908年冬のこと。永井荷風の随筆「傳通院」は、永井が外国から帰国して傳通院を久しぶりに見たその晩に傳通院本堂が焼け落ちたとしている。
漱石は、この火災を翌年明治42年1909年の新聞連載小説「それから」にさっそく取り入れたのだ。これに対して大正3年1914年の新聞連載小説「こころ」では、傳通院前が電車(市街鉄道)のターミナルとして1908年から1913年にかけて変貌したことを、小説の中に情報として挿入している。
「金に不自由のない私は、騒々しい下宿を出て、新しく一戸を構えてみようかという気になったのです」「ある日私はまあ宅だけでも探してみようかというそぞろ心から、散歩がてらに本郷台を西へ下りて小石川の坂を真直に傳通院の方へ上がりました。電車の通路になってから、あすこいらの様子がまるで違ってしまいましたが」(「こころ」より)
市街鉄道敷設の経過はつぎのようになっている。明治41年1908年4月東京鉄道富坂線が傳通院前から本郷3丁目まで開通。明治42年1909年4月には富坂線は傳通院前の安藤坂を下り大曲まで延伸された。さらに明治43年1910年10月には東京鉄道大塚線が、傳通院前から大塚3丁目まで開通。大正2年1913年4月には大塚線は大塚まで延伸されている。つまり傳通院前は大塚線の起点となり、富坂線との乗り換え駅となった。なおこれらの市街鉄道は昭和43年1968年から昭和46年1971年の間に廃止されている。
小石川の砲兵工廠で働いていた野村喜舟(明治19年1986年―昭和58年1983年)は、小石川について以下のような俳句を詠んだ。それは荷風の視点とも、漱石の視点とも違っている。小石川の生活者の視点ではないか。
凧上げや小石川台の一角に
壺菫(つぼすみれ)伝通院の墳(はか)にかな
小石川も音羽の空や渡り鳥
参考 近世までの本郷・小石川(傳通院前の古い写真あり)
澤蔵司稲荷
交通 地下鉄後楽園駅から徒歩10分。富坂を上がり富坂警察署を過ぎてすぐ。