魯迅と馬寅初の不和について 2018
同じ浙江紹興の出身であり、年齢も1歳差とほぼ同じであったこの二人の仲が悪かった話は有名だ。
掲祕魯迅和馬寅初爲什麽關係不好 2018/01/28 atoomu.com 2022年4月29日リンク切れ確認)による。
その理由の一つに上げられているのが、馬が正妻のほかに、2番目の若い妻を迎えていることを魯迅が嫌ったという話である。ただ当時、正妻のほかに妻がいることは違法ではなく、馬の伝記を調べると、正妻に男の子ができなかったのでという事情があるようだ。正妻そして副妻と終生仲良く暮らしたというのも有名なお話だ。他方、魯迅は留学中に母重病の電報で帰ったところ(1906年26歳の時)、結婚の段取りができており、無理やり結婚させられた。纏足をして字も読めないという、この正妻朱安とはうまくゆかず、その後は結婚しながら独身生活を送っていたとされる。
加えて1923年夏、1919年から共同生活をしていた、また文学活動でも同志であった弟の周作人との関係が突然破綻。失意の底にあった。まさにそのときに非常勤で教える北京女子高等師範で18歳下の女子学生、許廣平と恋仲になっている。その後、二人は厦門、広州、上海とともに移動。1929年には一子を授かり、許廣平は奥さんのいる魯迅との同居を選択している。
このような魯迅のプライベートライフをみると、馬寅初が旧時代の結婚を繰り返しながら、二人の奥さんそれぞれを幸せにして生活を謳歌していることに、新時代の理想を掲げた魯迅が理想と現実のはざまでとてもいらだったのではないか、つまり魯迅の内面の悩みが馬寅初への攻撃の形として現れたのではないか、と思わないではない。
以上のうち魯迅に関しては以下も参照。
張晨怡《教科書裏沒有的民國史》中華書局,2012,pp.131-142, 280-284
なお馬寅初に関して少し前に以下を入手していることをこの機会に報告しておく。これは従来の馬寅初研究では不明だった箇所を埋める決定的な資料で、過去の馬寅初の研究はこの年譜と突き合わせて修正が必要だといえる。
徐斌/馬大成編著《馬寅初年譜長編》商務印書舘,2012