毛澤東的故事 (2) 1911-1921
黃暉 毛澤東遺物的故事 湖南人民出版社 2011より
毛沢東について1911年(18歳)-1921年(28歳)までをみる。基本としては長沙にいた時期である。この間、1917年にロシア革命が起きたときに、それに強い関心をもったことは確かであるが、マルクス主義の文献に触れるのは1920年と意外に遅い。確かにそこからは一直線であるが。それと意外であるのは(ほかの中国共産党の指導者についても実はいえることだが)、簡単な入門書を数冊読んだだけで革命運動に進んでいることだ。もちろんそこに至るまでに、ほかの読書があり、ほかの経験があるわけだが。彼は師範学校で、マルクス主義以外にどれだけの教養や知識を身につけたのだろうか?その知識の幅が気になるところだ。
黃暉p.10 1911年,毛沢東は進学のため長沙にやってきた。この後の数年の間、彼の経歴はとても多様(豊富)である。前後して湘鄉駐省中學,省立第一中學に進学(進過)。その後、警察官になろうと警察学校の試験を受験。肥料製造家になろうと肥料学校の試験を受験。法官になろうと法政学校を受験。ビジネスを学ぼうと商務学校を受験。…途中で半年兵隊。武昌起義が勃発(爆発)後、極度に興奮した彼は直ちに筆を捨てて従軍し(投筆從戒)革命軍に参加し、湖南新軍二十五混成協五十標第一営左隊の一人の兵士となった。彼はこのほか湖南省図書館で自学して過ごすこと半年。最後に湖南第一師範を選択し、学ぶこと5年半、1918年に正式に卒業した(25歳)。
上屋場のこの農民夫婦は、彼らは自身の息子をますます理解できなくなることを、発見し始めた。息子が受験した洋学堂を彼らは見たことがなく、息子が学ぶところの新知識を彼らは聞いたことがなかった。飛ぶほどに高くなる凧(風箏)のような息子の世界は、ただ地上の上に立つことができるだけの父母の理解範囲をとっくに飛び越えていた。25歳になった石三伢子は勇躍学校の門を出て、社会の大波(洪流)に歩み入るに際して、母親が崇拝した菩薩はとっくに投げ捨てた(抛棄)ところであり、父親の望んだ一家を富ませることは、すでに同様に小さすぎて取り上げるに値しない(渺小得不值一提)ことであった。自身の風采能力に自信のあふれた(風華正茂)同窓の青年たちとともに、彼は人生の目標は、「中国と世界の改造」にあると叫んでいた。
父母にできたことは、ただこれまで同様に田植えをしてコメを売り、苦労を自分たちが背負って(含辛茹苦)、学ぶ息子を養うことであったが、心の中では息子について彼らがその将来を算段できないことを案じていた。
(黃暉p.17 1918年6月 湖南第一師範教員の楊昌済(1871-1920)は蔡元培の召請に応じて北京大学倫理学教授として北京大学に赴任する。毛沢東は楊昌済先生宅を毎週訪問して教えを乞う仲だった。楊昌済も毛沢東を評価していたとされる。1918年秋、北京に勤工儉學(働きながら学ぶ)運動のため、北京におもむいた。そこで楊昌済に頼んで北京大学助理員の仕事を得た。その月給は8元とのこと。文学科長の陳独秀は300元、胡適教授は200元だっとのこと。毛沢東はこの楊昌済先生の娘の楊開慧(1901-1930)と恋愛する。楊昌済は1919年12月に病を得て入院、翌1920年1月には急逝している。1920年冬に楊開慧と毛沢東は結婚している。このとき毛沢東は湖南第一師範付属小学主事である。)
<長沙 湖南第一師範時に毛沢東がおこなったことで重要なこととして、同窓の蔡和森ともに新民学会を1918年4月に設立したことがある。この団体は当初は、学術を革新することを目的とする学生の互助団体であった。その中にあって、毛沢東は「中国と世界の改造」を常に唱えていた。やがて後述するように1921年1月この団体は大きく性格を変えることになる。新民学会については以下が詳しい。李維漢:《回憶新民學會》在《回憶與研究》中共黨史出版社, 2013年版,1-24>
<1918年8月に毛沢東は初めて北京にきて、9月10月李大釗が主任(館長)をしていた北京大学図書館で助理員を務めたというのが、よく見られる指摘である。莫志斌:《湖湘文化與近代中國》中華書局,2006, p.135 このとき北京大学の知識人から受けた冷遇が毛沢東による知識人苛めの根にあるという解釈はしばしばみられる。例 コース・王寧『中国共産党と資本主義』邦訳p.37.後述するように、この前後で毛沢東は両親を亡くしている。新民学会の立上げ、卒業もこの年。北京大学にいたのは、嵐のようにあわただしかった1918年の一コマである。北京大学でどのような生活をしたのか、教員との交流はどうだったのか。実際には不明の部分が多い。>
<後年の毛沢東の述懐では1920年になって毛沢東はマルクス主義の文献に触れている。カウツキ―の階級闘争 マルクス=エンゲルスの共産党宣言 そしてある英国人の書いた社会主義史 である。それで人類の歴史には階級闘争があり、階級闘争が社会発展の原動力だということを知った というのである。莫志斌:《湖湘文化與近代中國》中華書局,2006, p.19>
<また1920年秋、師範付属小主事になってから、労働者の夜学を再開(重新)、そこで失業した労働者農民の子弟のために補習学校を開いた。その目的はマルクス主義を広めて労働者を組織化することにあったという。莫志斌前掲書pp.9-10>
(黃暉p.11-12 楊昌済先生が病で倒れる直前だが、1918年10月、毛沢東の母親の文素勤が韶山でなくなった。長沙に赴いていた毛沢東は死に際に間に合わなかったとされるが、1918年春に、リンパ腺炎の病状の悪化を知ったときには、北京での勤工儉學から急いで戻って、長沙での治療について弟たちとともに介護に努めたとされる。毛沢東の父毛順生が傷寒(感染症)でなくなるのは文素勤の死からわずか3ケ月半後のこととされる。)
(黃暉p.13-14 1921年初め、毛沢東は自宅に戻り春節を過ごした。この時 毛沢東は一家全員を集め家族会議を開いた。弟妹も革命に身を投ずることを決め、一家を上げて長沙に引っ越すことを決めた。その後、二人の弟と妹はその後中国共産党に加入し3人とも新中国成立前になくなっている。毛家の4人兄弟姉妹のなかでただ毛沢東だけが生き延びて新中国の成立をみることになった。)
<1921年の新民学会新年会 ここで毛沢東や蔡和森たちはロシアの10月革命の道が中国を改造する道だと主張し、同志とともに会をマルクス主義の宣伝普及に努める新思想的革命団体に変更することした。莫志斌前掲書pp.8,15,39,47-49>
(黃暉pp.22-40 1921年7月に毛沢東は中国共産党の創立に参加しているが、同年秋に二番目の女性党員として楊開慧が入党している。このあと二人は行動を共にするのだが、1927年8月末、党の命令で蜂起を組織するため、楊開慧と3人の幼い息子たちを残して、毛沢東は長沙を離れる。1930年10月24日深夜、楊開慧はついに逮捕される。楊開慧はこのあと取り調べを受け11月14日に銃殺された。
楊開慧の3人の子供たちは、一度は共産党の地下組織が保護して上海に送られるが、ほどなく上海の地下組織が破壊されたことで、丸4年流浪の苦労をする。流浪が始まったとき一番年上が毛岸英10歳であるが、その下が岩青8歳、さらにその下に岩龍もいた。1936年に奇跡的に再発見されたとき、岩青は大きな傷を胸に受けており、岩龍は感染症で亡くなっていた。その後、岩英、岩青はソ連で教育を受けた。岩英については毛沢東もその将来を期待したと思われるが、1950年11月25日に朝鮮戦争において亡くなった話は有名だ。)
(岩青については戦後、統合失調症を発症したとされその治療を受けていたとされるがどのような人生を歩んだか、詳細はわかっていない。2007年に亡くなったとされている。)