李公朴、聞一多暗殺事件(1946年7月)と梁漱溟
中国民主同盟の中央執行委員であった李公朴、聞一多が昆明で国民党の特務(スパイ)により暗殺されたとされるのは1946年7月11日と15日のことである。この事件は、共産党と国民党の間に立つ、中国民主同盟にとって、国民党を見限ることになる、大きな転換点になる事件だと考えられる。そこに到る時間的な流れを確認したい。ポイントの一つは国共が全面内戦に入る局面での出来事である点だろう。
ところで以下の時間の流れで分からない点の一つは、1946年5月20日(別の資料では5月18日)いったん中共軍が引いた理由である。想像するに国民党軍がこの時点では優勢で引いて態勢を立て直す必要があったのであろう。この点は国民党側などの資料で経緯や事情は再検証する必要がある。もう一つは、聞一多たち民主同盟中央委員の暗殺を誰がいつ指示したのかである(大変興味深いのは昆明の米国領事館に民主同盟メムバーが逃げ込んだところである。米国が、民主同盟を保護対象とみていたことになる。よくわからないのは、蒋介石がこの暗殺に本当に関与していたかである。仮説としては、民主同盟をほとんど共産党と同列視していた可能性はある。しかし梁漱溟の言説は共産主義とは程遠いことは確かだ。国民党側になぜ民主同盟の中央委員を暗殺する必要があったのか。理解できないところは残る。)。
以下は鄭大華《梁漱溟傳》人民出版社2001年1月pp.330-340から年号日付を拾ったもの。日付に不正確なものが混じっているかもしれない。そこで『梁漱溟先生年譜』広西師範大学出版社1991年6月と対比して違いを書いておく。
1945年8月15日 日本が無条件降伏を宣布。
1945年9月19日 中共中央《北に向かい発展し、南に向かい防御の戦略方針》発出 東北はソ連軍の手中にあり、中共軍の侵入に便宜を与える一方、国民党軍の侵入をさまざまに妨害した。
1945年10月10日 国民党と共産党が双十協定締結。
1946年1月10日 国民党と共産党が停戦協定締結(1月13日夜 東北を除く全国で停戦)
1946年1月10日 国民党主宰 各党派参加で政治協商会議が重慶で開催(梁漱溟は軍事組に参加し、軍人は国家に属し、党籍を離脱することを提案する。しかし周恩来が我々の軍人は党から離れることはないと発言して、梁漱溟の提案は否定される。このことは梁漱溟に現実政治からの引退を決意させる。年譜p.163)。
1946年1月31日閉幕(年譜p.164によれば1月30日) 政府組織 政府綱領 軍事問題 国民大会 憲法草案で5項決議。
3月10日梁漱溟北京へ飛ぶ。15日北京から延安へ飛ぶ。この時、延安では憲法案について共産党中枢と協議の後(重慶での議論では欧米式の憲法も議論されたとのこと。梁漱溟の議論は、超党派の政権を作ろうというもので現実的でないと否定された。)。
(年譜pp.164-165によれば3月11日に延安訪問。3月10日に北京に飛び、翌日別の飛行機で延安に入る。空港では毛主席の出迎え受ける。その歓迎の席で、毛を含めた幹部の前で、多党制、一党独裁のいずれでもない、党派総合体が政権を監督するという自身の構想を主張したように思われる。なおこの時,毛は意見を表明しなかったほか、朱徳が最後に「これはあるいは30年後のことか!」と言ったほかは誰も一言も反応しなかった。)。
3月25日、周恩来とともに重慶に戻る。
3月27日国共間で軍事衝突協定。この間にソ連軍は東北撤退へ。実際は国共間の戦闘続く。東北の内戦の全国化が懸念される。
4月末。民主同盟秘書長が空席に。梁漱溟が三ケ月引き受けることに。
5月20日 中共中央軍が進んで四平、長春から撤退。国民党軍はこれを追撃している(四平戦役によれば、撤退は5月18日。これは吉林省四平街市をめぐる攻防で両軍とも多数の犠牲者を出した。戦役は4回あり、2回目と3回目は国民党軍が勝利している。また年譜p.169によれば、5月23日、梁漱溟は他の人たちとともに国共両党に即刻停戦を申し入れた。これに対し毛主席は「原則賛成」と返答したが、蒋介石は受け入れず、むしろ東北に大挙進軍したとのこと。つまり開戦当初の1946年春の段階においては、国民党軍が優勢であったことがわかる。)。
蒋介石が中共軍に6週間以内のソ連北解放区からの撤兵を求める。
7月12日 蒋介石 中共軍に攻撃を発動。全面戦争勃発。
以上は鄭大華《梁漱溟傳》人民出版社2001年1月pp.330-340から年号日付を拾ったもの。日付に不正確なものが混じっているかもしれない。以下はpp.340-341の部分訳。
p.340
(1946年)蒋介石は7月12日、中共軍に猛攻の発動を指令し、これにより内戦は全面爆発した。
蒋介石が中共軍隊に対して猛攻を発動したと同時に、国民党は共産党を同情そして支持し、国民党の独裁統治に反対する民主同盟のメムバーや愛国人士の大規模殺戮(大开杀戒)を始めた。7月11日と15日に民主同盟の李公朴、聞一多は国民党特務により前後して昆明で暗殺された。
李、聞の暗殺事件が発生したあと、梁漱溟はすぐに民主同盟秘書長の肩書(身分)で書面談話を発表し、そこで明確に指摘したー李、聞の二人は「国民党特務により殺されたものである」このことで国民党に対し厳正なる抗議を提出し、特務機関の廃止と、人民の政治活動の自由とを要求する。彼は国民党当局に厳正に告げる、「この種の機関を廃止しない限り、民主同盟は政府に参加しない。私個人は現実政治から抜け出し、文化工作に貢献したいと強く思っている、これは各方面の友人が知るところである。しかし今日のこの情況から私は退出できなくなった。私はこの銃弾(这颗子弹)を避けることができない。私はただ何度も「特務廃止」を叫ばねばならない。私はなお国民党特務が民主の人をすべて殺すことはできないことを見ることにしたい。私はここで彼を待っている。」間もなく、梁漱溟は民主同盟中央の委託で、国民党特務により暗殺されるリスクを犯して、自ら昆明に入り、李、聞が殺された件を調査した。当時、昆明の形勢は十分緊張しており、国民党特務の威嚇の下、多くの大学教授や民主同盟昆明支部メムバーが米国領事館に逃げ込んだり、身を隠しており、一部の証人はあえて証言しなかった。蒋介石は 顧祝同が率いる高位数名と大量の軍警を南京経由で飛行機で昆明に派遣し、名目上は民主同盟が調査することを協力支援するとして、
p.341 実際は地方当局をして調査の進行を妨げさせた。しかしこのような困難な環境のもとで、梁漱溟と同行した民主同盟副秘書長の周新民たちは、米国昆明領事館の支援の下、大量で綿密な作業を通して、事実と真相を明らかにした。
8月22日、彼は昆明から飛行機で上海に戻った。26日、上海で記者会見が行われ、調査の経緯と結果が報告された(なおこの調査報告書は『年譜』に収載されている。『年譜』pp.319-344)。彼はまず国民党がこの度の調査を妨害し、李、聞殺害の真相を隠そうとした卑劣な行為を暴露し、国民党に野党に「政治上の地位を」承認することと、「(李、聞殺害の件で)純粋で公正に民主同盟との共同調査、共同審判、共同の公開発表」とを求めた。併せて厳しく指摘した。「もし政府が我々の意見を採用しない場合、われわれもまた(もはや)固執しない、というのもそうしたところで政府の隠し事であることが今一度証明されるに過ぎないからだ。」