顧准 直接民主と議会清談館(中) レーニンは独裁をもたらした 1973/04/20
顧准《從理想主義到經驗主義》光明日報出版社2013年pp.125-128の訳文である。
顧准(グウ・ジュン 1915-1974)は以下でまずカウツキーとレーニンを対比して、革命を達成した点でレーニンを評価している。しかし続けて、レーニンのやり方がスターリンの独裁を導いたとする。ではどうすべきか。顧准は米国の政治史を引いて、革命後、米国のように政権が交代しうる形を取れば、ソ連で生じた多くの弊害は避け得たとしている。顧准は権力を取るうえで、レーニンを肯定。しかし権力掌握後は、速やかに権力を分散すべきだと、と説いている。この考え方への疑問はこうである。権力掌握のところで、独裁を一度でも肯定すると、独裁からの離脱は困難になるのではないか。ということである。「八」のところで顧准はこの疑問にも答えようとしている。解釈に迷った部分もあり以下の訳文は暫定的なものである。
p.125 六, カウツキー論争
カウツキーは言う。現代、行なえる民主は、行政機関を保留し(すなわち官僚機構を保留し)代議政治を行うものだけで、反対派の存在も必要であると。
カウツキーは和平移行論者で、彼の和平過渡論は事実上、ヒットラーに第三世界を準備させた。(つまり)彼は誤った。
p.126 レーニンは、直接民主の無産階級独裁を強調し、政権を奪取し、ツアー(皇帝:ロシア皇帝を指す)政治の 汚泥濁水を粛清(掃蕩)した。彼は正しかった。彼とカウツキーの間の違いは、革命を恐れないものと、恐れる平凡な人との違いであり、これは疑いがないところである。
(しかし)問題は「連れていったあと(革命が実現したあと 福光挿入)どうするか」になおある。レーニンは直接民主を信じていた。彼は十分勇気もあったので、ブレスト=リトフスク講和条約(1918年3月3日 訳者挿入)の後、全軍隊を解散し、赤衛隊(すなわち公民からなる民兵の軍隊)をもって常備軍に代えた。彼は言った、「機関」とは会計やタイプ打ちに過ぎず、特権のない雇われ人で構成できると。(また)彼は言った、人々の統計監督が、企業管理や政府官庁(閣部)の代理をできると。レーニンの計画委員会は技術専門家で構成されたが、それは決して経済管理機構ではなかった。
(直接民主の)実行の結果は
ソ連の軍隊は全世界で最大の職業軍隊となった。
その官僚機構は中国以外では最大の機構である。ジェルジンスキーのチェッカー(秘密警察)は、ベリヤの内務部になった。
工場ソビエト(ソビエト:評議会、会議といった意味だとされる)と農場ソビエトを直接民主制の基層とする(ソビエトを重視する考え方の中に、国民から広く選出される議会を否定する考え方が含まれている。訳者挿入)直接民主制は、レーニンの生前すでに、工場の責任者制(一長制)に置き替えた。すべての権力はソビエトへはすべての権力は党に属すると変えられ、さらにすべての権力はスターリンに属すると変えられた。
七、米国史の一段
米国開国以後の一段の歴史は興味が尽きない(饒有興味)。ワシントンは大地主であった。大陸会議で実際、(ワシントン以外)誰も兵を率いられなかったので、彼が総指令になったが、戦争は確かに又大変苦しいもの(艱苦卓絕)だった。英軍は破れ、コーンウオリスは投降した。ワシントンの部下の将軍たちや、さらに彼の部下である政治家、ハミルトンは彼を国王に抱こうとしたが、ワシントンは堅く拒絶し、その意思をしめすために、すぐに軍隊を離れた。
ワシントンは大統領を二期務めたが、第三期は就任を拒み選挙への参加を断った。その後、就任した大統領はアダムス、ジェファーソンのいずれも名声がある。とくにジェファーソンは、ラッセルが専門用語ージェファーソン民主主義を立てたほどである。独立小農場主(我々が自作農:自耕農というもの、のちの宅地法に規定では国家は3600ムーの土地を安い価格で売っている。)を全力で援助する民主主義である、
p.127 あの王政を主張したハミルトンもまた首をはねられてはいない。彼は潮流に違反していたので、大統領となることはなかった。しかし「連邦党」の創始者になった。連邦党は海外貿易の発展に着眼し、貧しい人を偏愛(袒護)する民主主義に反対し、過度の貴族傾向があった。しかし彼の連邦党は、主流派の党と対峙し、米国の後の二党の基礎になった。
それゆえ、米国独立戦争時期大陸会議の中に、主要人物は、すべて政治舞台上に登場している。これを1917年に比較すると、スターリン、ブハーリン、トロッキーが交互に大統領を務めたようなものである。かつソ連共産党を二つに分けて、、交互に政権を担当したようなものである。仮にそうなったと仮定して、十月革命は葬られることになっただろうか?私はそう信じない。世界革命を鼓吹するトロッキーが政権についたとして、彼はなお五年計画を実行できたか、彼は武力を用いて革命輸出をすることはできなかったか。それどころか、執政者はいつも反対者がそばで失敗を待っているために、また失脚を待って群衆の擁護を得ようと、次の選挙では変わろうとしているために、どのようなことであれ、行き過ぎたことはしない、真理を説いても行き過ぎると極端な誤り(荒謬)になることは言うまでもない。のちにソ連で発生したすべての弊害の大半は、避けることができた。
当然、米国(これは新教徒移民が組成した国家である)にだけあるものとしてワシントンがある、ワシントンその人はもしロシアに生まれたなら(この専制皇帝、そしてまた正教教会首脳の野蛮で遅れた国)、たとえスターリンにならないだけでなく、ワシントンになることも不可能だ。
八、「議会は清談館」と「党外に党あり、党内に派あり」
各国家の歴史伝統について話さず、現在は二つの党の議会政治についての主要な批判である「議会清談館」について話そう。
議会政治は必然我々には見慣れないものだ。議会の中には一組の「戦術」がある。長々とした演説発言があろうし、議員の間で墨水の瓶を互いに投げることもあろう。武闘もある。法案の審議に際しては「三読」が必要で、法律条文の討論では字句の斟酌(咬文嚼字)が行われる。重要な法案かどうかとは無関係に、正式な議事順序に従って進められ、演説者は空席に向かい堂々と話す(侃侃而談)奇妙な光景がみられる。選挙の時は華やかに(五花八門)力のある人が持ち上げられ(擡轎子),饗応、地方の大物(大享):杜月笙のような一流人物が選挙を仕切り、当然多くの大小の賄賂がある。これらはすべて形式にすぎない。さらに哲学者が見慣れていないのは、このすべてのものは
p.128 民族を導く人、指導者がいないことを表しているが、それはいかなる「主義」も存在しないことと等しい。加えてあの字句の斟酌といった議会の討論は普通の人には耐えがたい(做庸人氣息十足)ものだ。
まさにドイツから、このヘーゲル主義が盛んなドイツからロンドンに来たエンゲルスは、まさにこのように英国をみたのである。エンゲルスもマルクスも同じく、実際ともにナポレオン1世の崇拝者であり、ヘーゲルがかつてナポレオンを「世界精神」だと言ったことがある。ヘーゲル主義は実際は哲学化されたキリスト教であり、英国の卡菜兒は英雄崇拝の神秘主義者である、エンゲルスはかれの啓発を受けた、絶対真理を信ずる人と狂熱的キリスト教徒は同様であり、ともに凡庸であること(庸人氣息)が耐え難く、二十年に一度の革命の風暴を賛美し、自然に議会の清談館を極端に嫌った(深惡痛絕)のである。気迫雄大な(轟轟烈烈的)1793年の国民公会と気息奄々(死氣沉沉)の英国議会を対比して、あの比べは少しずつ前進するイギリス精神をまた評価できたかどうか。
私は革命の風暴(嵐)を賛美する。問題は「(革命に)連れていったあとどうするか」にある。大革命は鉄の規律を要求する。大革命は汚泥濁水を荒い流す(滌蕩)。しかしひとたび新秩序が確立したら、革命集団は二つに分ける必要がある。「党外に党があり、党内には派がある。昔からそうだったように」。このときにこのようにするのか。論理的に推論すれば、いつであれいつも二つに分けることが必要であり、つねに「お前を消滅させる」ことでは解決できない。「お前を消滅させる」を用いて解決のあと、なお一を二に分けることはできる。常に変化発展は続き、陽炎同様に自身を消滅させることも必要である。それでもいつも一を二に分けることが必要なら、すぐにワシントンの方法を用いてはいけないか?例えばであるが、思うに目下の「政令が一致しない」現象を解決できる。『文匯報』はなお進められるべきだが、それに一つの派を代表させよ。一つの通気口があり、あらさがしをする(吹毛求疵)監督者がいる、これは龔自珍がいうところの「萬馬齊喑究可哀(多くの馬が声もない 人々が沈黙している様を比喩)」より少し良いのではないか。
欠点(弊病)についてはどの制度にも皆ある。すべて完璧(十全十美)の制度は存在しない。この人の世では絶対完全ということはない。我々はできることを行うのであり、永遠に「双方に利益にあることはその重要さで決め、双方に害のあることはその軽さで決める」に過ぎない、さらに欠点(弊害)は批判(罵)の公開を恐れないこと、批判は少し良くなるのである。
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