2.6 小脚女人走路
p.53
1955年初め、中央は一連の幾つかの緊急指示を発出した。ー糧食の統購の数量を減らし、合作化の歩幅(步伐)を小さくした。しかし時を置かず、毛主席の態度に重大な変化(改変)が生まれた。また合わせて「農村の社会主義の風暴」が間もなく来ると予示された(7月31日の講話では「風暴」だった。10月の会議では「風暴」は「高潮」にあらためられた)。
1955年4月末、毛主席は外地から北京に戻り五一節活動に参加した。5月1日、天安門上で、譚震林に対し、合作化はなお少し早くできると話した。4月末の外出で沿道の「麦が人の半分の高さに育っている」のを見たことは、農民の耕作の積極性がとても高いことを証明(説明)している、合作社を行う積極性も高いことを証明している(と毛主席は考えた)。
5月5日、毛主席は中南海頤年堂で、鄧子恢に言った。「1953年に大量に合作社を解散した、あの種の誤りを繰り返してはならない、さもないとまた自己批判が必要になる」と話した。当時そこには、劉少奇、彭徳懐もいた。以前(訳注 のことは)私は全く知らなかったし(并不知道)、このときのことも鄧子恢はまた私に伝達しなかった。
農村漁村文化協会訳p.90-10
毛沢東は1955年4月下旬に地方に下ってから、変心したとされ、北京に戻った5月以降は、合作社運動を加速することを周囲に一段と強く指示するようになった。いわば不退転の決意を抱え込んだ状態で、それを妨げているのが農村工作部だとみるようになったのではないか。
5月5日 中南海 毛沢東、頤年堂で鄧子恢に対し1953に大量の合作社を解散させた誤りの再来をしないように警告
5月9日 毛沢東 鄧子恢をも呼んだ席で統一買上げの削減と社会主義との交換を提起 「この談話の重要な点は、ここ数年が合作化の重要な時期であるので基礎を築かねばならないと提起したことであり、批判の矛先を党内の上層部にむけたことである」訳p.91
5月17日 毛沢東 杭州で15の省市党委員会書記合同会議開催 保守に反対を提起 停止 縮小 発展(3字方針)の中の発展を強調会議後 明春合作社を100万とすることを決定
6月14日 劉少奇は中央政治局会議主催
7月11日 毛沢東 頤年堂で鄧子恢、杜潤生をまえに停止 縮小 発展の中の発展を強調
7月31日から8月1日 中央による全国省市党委員会書記会議 毛沢東は鄧子恢と農村工作部を「纏足女のように身体を揺らしながら歩き(像一個小脚女人,東揺西揺地在那裏走路)」と暗に批判した
8月1日 毛沢東は鄧子恢との論争の解決を宣言
8月3日 毛沢東と鄧子恢は合作化を130万に引き上げることの可否をめぐり大論争。ここで鄧子恢はソ連では集団化の時期にやる気がそがれて生産力の低下が起きたと指摘したとされる。鄧子恢は合作化を進める多くの条件を列挙。主席は大変不機嫌になった。杜潤生は、かならずしも鄧子恢に賛成せず。鄧子恢は数字に拘泥する必要はなく、戦術と戦略とをごっちゃにしていたと批判している。
8月26日 毛沢東は農村工作部から農業合作化運動を指導する工作の権限をはく奪を支持。
9月7日 毛沢東は党中央に対し、合作問題を議題に第七期六中全会招集を指示。
1955年10月4日から11日第七期六中全会。合作化を発展させる決議。鄧子恢と杜潤生が自己批判。杜潤生は土地改革後の農村の発展が新民主主義の建設であるという考え方であったことを、隠していない。「(自身の)思想は、ブルジョア階級の本質をもつ民主革命の段階で停止し、社会主義の前途を奪取することを当時のただちに積極的に推進すべき任務と見なさずに、小農経済の現状に安住し、前進を求めなかった。当時、私は、激烈な土地改革闘争を経過したあとは、農民の生産に対する感情を短期間安定させることが必要であると主張した。農民たちの”ちょっと休憩したい”思想に同情したことは、富裕農民たちに四大自由を発展させることになった。」(杜潤生自己批判書 1955年10月25日)農村漁村文化協会訳p.100