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梁漱溟と毛沢東:延安での最初の会談(1938年1月)

 梁漱溟と毛沢東との関係を語るうえで、新中国成立前の両者の関係を知る必要がある。新中国成立前、梁漱溟は2度にわたり延安の毛沢東を訪ねている。ここではその最初の訪問(1938年1月)について述べる。このときの二人はともに、国防参議会の参議員。統一戦線の名のもとに、集められた25人の参議員の一人である。
 1937年7月7日の盧溝橋事件による抗日戦争全面化に対して7月15日、中国共産党は、国民党に対して「合作宣言」を出して、共同抗戦を呼びかけた。これを受けて、8月11日国民党中央政治会議は「国防会議」「国防委員会」を解消して、国防最高会議(蒋介石主席 汪精衛副主席)を設立。その諮問組織として国防参議会を置き、この参議会に各界の人士25名を集めた。その名簿には、梁漱溟、毛沢東のほか、胡適、陶希聖、黄炎培などの名前がみられる。8月17日、南京中山陵で開かれた国防参議会第一回会議には、毛沢東の代理として周恩来が出席している。
    淞沪抗戦が失敗した後の11月16日、国民政府は武漢への遷都を開始し、同日夜には国防参議会参議員を船で送っている。梁漱溟自身は12月9日に武漢に到着している。そして1938年1月1日に飛行機で西安に向かった(以下の延安行きは、蒋介石の同意を得ていることは明らかであり、会談の内容や延安の様子は、蒋介石に報告されたと考えられる。この報告が歴史的にどのような意味があったかは興味深い。)。ここまでの記述の典拠は鄭大華《梁漱溟传》人民出版社2001年pp.283-288.
 以下は同書pp.288-294の全訳である。同書は、1938年1月に行なわれた二人の間の議論を整理しすぎている印象がある。それでもかなり密度の高い意見交換があったことはわかる。今回は整理される前の資料だと思える《梁漱溟先生年譜》広西師範大学出版社1991年6月を注として適宜引用したい。

p.288    まず南京を離れるとき、国防参議員は各地方視察の任務を受けた。梁漱溟は陕西そして河南の視察を希望した。今回の西安行きは、命令による視察である。しかし彼の本当の目的地は中共中央の所在地延安であった。梁漱溟自身の回顧に依れば、今回の延安行きの動機は二つ。一つは中国共産党について考察すること。二つは中国共産党の責任者と幾つかの問題で意見を交換すること。我々はすでに、抗日戦争が勃発後、抗日民族統一戦線建設を推し進めるために、日本という盗賊の侵略に対して、連合できる力をすべて連合して共同で攻撃することを、提起した。中共中央は、国民党に与えた「中国共産党は国共合作宣言を呼びかける」の中で、三項目の要求、四項目の保証を提出し、全国に丁重に声明した。「(一)孫中山先生の三民主義は中国の今日必需である。わが党はその徹底した実現を望み奮闘する。(二)すべての国民党政権をひっくり返す暴動政策と赤化運動を中止(取消)し、地主の土地の暴力による没収を停止する。(三)現在のソビエト政府を中止し、民権政治を実行し、全国政権の統一を目指す。(四)赤軍(紅軍)の名称と番号を中止し、国民革命軍に改編し、国民政府軍事委員会の統括を受け、命令を受けて
p.289   出動し、抗日前線の職責を担う。」中国共産党のこのような民族利益を重視する精神は、全国人民の心からの支持(擁護)と高い評価とを獲得し、抗日民族統一戦線の建設を可能にするものであった。国防参議会参議員として、梁漱溟は中国共産党民族統一戦線政策は、心から支持できるものであった。彼はかつて指摘した。「抗戦前、抗戦初期においても、我々のこころでもっとも喜ばしいことは、中国共産党が国内闘争を放棄することであり、国家が統一に進むことである。我々郷村の建設を語る人間が、最も強く反対するのは暴動と破壊であり、切迫して求めるのは建設である。しかし国家の統一がなければ建設を語ることはできない。それゆえに統一はすべてのことに優先する。」しかし喜ぶ一方で彼はまた心配している。「多年国内闘争してきた共産党が、一旦国内闘争を放棄する。その変化は甚大である。この変化に頼ることはできるだろうか?」それゆえ彼が必要としたのは、実地考察であり、共産党の変化が本物か偽物か、深いか浅いかを見ることであった。同時にまた、国家をさらに一歩統一にいかに進めるか共産党の責任者と意見交換することを彼は希望した。
 梁漱溟は1月5日西安から延安に、そして25日に延安から西安に戻った。併せて20日である。この20日間の延安旅行は、かれにとても深い印象を残した。彼はのちに『訪問延安』『延安への最初の訪問を回顧する』の二つの文章のほか、様々なところで彼の延安旅行とその感想について語り、中共の指導者毛沢東、聴聞天らとの会談について述べた。
 この度の延安旅行が梁漱溟に与えた第一印象は、陕甘宁边区の自然環境の劣悪さだった。彼は軍用車両で北に向かったが、軍用道路が幅も斜度も湾曲の程度も、道路の規則に合致しておらず、「北に向かうほど、高く走るほど、橋梁もトンネルもなく、危険と面倒が多かった。・・・目につくのは荒涼たる風景で、人口は乏しく、人々は貧しかった。一望してなにもなく、ただ驚いたのは、多くの予想外の人々に出会ったことだ。」
 そしてこのような劣悪な自然環境のもとで、延安の共産党人は、生存していだだけでなく、梁漱溟を興奮させる生活方式を創造していた。彼は前後して延安のいくつかの学校、機関、政府と共産党組織を参観し、「その状況(気象)が確かに活発で、精神は
p.290   確かに発揚しており、男女は等しく制服を着て、終日抗日工作に忙しく、じっとおとなしくしていることはほとんどない」と感じた。人と人の間は平等的で、生活水準に大きな差はなく、誰も特権を享受していない。人々は研究や学習を好み、歌を歌ったり集まって議論することが好きで、朝の活発な精神にあった。毎日、「まだ薄明かりの中起床し、鼻歌で唱和して、まるですべての労苦を忘れ去ったかのよう。人と人の気持ちの交流は多く、お互いに感化しあっている。」かつて大学教師や中学校長を務め、教育改革を行った梁漱溟は、延安の「教育モデル」に興味をそそられた。彼は延安の教育はやり方が新鮮で、興味深いことが多いと感じた。例えば、彼が例に挙げたのは、北平(北京)、天津、上海あるいは南洋から延安に来た青年学生たち、彼らの現在の生活は過去に比べて「苦労は多少増している」が、その学習への興味と関心は以前に比べてより深くなり、身体もまた以前に比べ悪くなっているわけではなく、ことに彼らの朝のような沸き立つ精神はかつてなかったものだ。これは延安の教育モデル成功の最良の証明である。
 今回の延安旅行が梁漱溟に与えた二番目の印象は、共産党の変化は偽(いつわり)ではなく、また一時の策略手段でもないということだった。彼は参観と共産党の各クラスの責任者との会談を通して、延安時期の共産党の政策が、ソビエト時期の共産党の政策と大きく変化していることを目撃した。たとえば民衆運動であるが、ソビエト時期の農会は地主や富農の参加を許さなかったが、現在はいずれも参加が許可されている。延安城内には以前は市民会だけで商会がなかったが、現在は外部と同様に商会組織がある。「全体として言うと、民衆団体は以前は階級性組織だったが、現在は全民性(組織)である。一面でその運動は救国をスローガンとするものに変えられ、一致して外に対するもので、さらに内部に向けて階級闘争をするものではなくなった。」さらに政権の建設において、上は自治区の政府主席から下は村郷長に到るまで、すべて選挙民による選挙で選ばれる。ソビエト時期には選挙権のない人がいたが、現在は誰もが選挙権と被選挙権をもっている。共産党は土地革命時期の土地政策を放棄し、以前離郷した地主の多くが戻っている。しかし土地はすでに分配され、そのもとの土地を取り戻すことはできないので政府が土地を支給している。張国燾、毛沢東など中共の指導者はさらに、今後どのような土地政策を取るべきかは研究の余地があり、各党各党派で共同研究解決することを希望するとした。
 国共合作の今後について、中共総書記の張聞天は,梁漱溟に明確に伝えた、
p.291   中国共産党は真心から国民党との団結、合作を望んでいる。国民党による共産党排斥は、第一次国共合作の崩壊(破裂)を招き、共産党を10年にわたる土地革命戦争遂行に追い込んだ。現在国共第二次合作はすでに実現し、広範な抗日民族統一戦線が建設されている、共産党は国民党との長期合作のもと、共同抗戦と共同建国を望んでいる。梁漱溟が共産党が政権を支配したいかどうか(自操政権)問題を出したところ、張聞天は明確に伝えた、共産党が国民党がその革命を完成するのを助けることに、自ら政権を支配することは必ずしも必要でない、と。
 梁漱溟が共産党は彼に「見せたいものを見せ」「聞かせたい話を聞かせた」のではあるが、事実は彼を「中共は変化中である」と信じさせた。「彼らの変化は偽物ではなく、一時の策略手段といったものでもなかった。彼らが再び内戦を望まない気持ちは本当に切実であった。」しかし彼は同時に、共産党の「変化は偽物ではないが、また深くもない」と認識した。というのは共産党は「階級の眼光で中国社会をなお見ており、階級闘争が中国問題を解決すると(考えている)。言い換えれば、根本は全く変わっていない。環境事実は変化を求め、その気持ちも変わっているが、根本の認識の変化はほとんどない」。梁漱溟のこのような判断は全面的に正確である。抗日民族統一戦線建設のため、共産党は土地革命時期のいくつかの方針政策を確かに放棄したが、同時に共産党は自身の信仰を全く放棄していないし、マルクス主義の階級分析方法と階級闘争理論を全く放棄していない。
 延安旅行で梁漱溟に最も深い印象を残したのは、毛沢東との会談であった。延安滞在中、毛沢東との談話は前後8回に及び、送迎のための儀礼的な2回を除く、その他の6回はとても長時間のものだった。うち2回は夜を徹し明け方に及んだ。毛沢東の仕事と休息の習慣から、会談はすべて夜進められ、一般に夕食後開始された(注 年譜は、毛沢東は夜6時に起きて朝食後、文書を見るという昼夜逆転の生活をしていたと伝えている。年譜p.116)。会談の中で彼らは国共合作、統一戦争、共産党政策、中国前途などの問題で広範に意見を交換し、多くの問題で、彼らの観点は基本似ているかあるいは比較的接近した。
 梁漱溟と毛沢東は古い知り合いだといえる。早くも1918年に彼らは出会っている。当時、梁漱溟は北京大学の哲学の教師であり、毛沢東は将来の岳父楊昌済の紹介で北京大学図書館でアルバイト(臨時工)をしていた。楊昌済もまた北京大学の哲学の教師であり、梁漱溟との関係は良かった。梁漱溟はヒマがあるといつも北京鼓楼大街豆腐池胡同の楊家に雑談に行った。彼が
p.292  行くたびに、柳家の門毛沢東を開けたのは毛沢東だった。梁漱溟は当時、門を開けてくれる背の高い湖南の青年を注目しなかったし、会話を交わすこともなかった。20年後にこの背の高い湖南の青年が中国共産党の領袖になり、その動静が中国の時局に影響を与える人物になるとは考えもしなかった。
    この会談で毛沢東は梁漱溟にとても良い印象を残した。のちに彼は回想して述べている。「この会談での(毛沢東の)私の印象はとても良かった。昔、諸葛公はその美しい髯で称えられたが、私は今もその思いがする。彼は礼儀に反すること(俗套)も虚飾もなく、ゆったりしており(从容)自然で親切だった。議論するつもりはあるが、心の中に不愉快なものはなかった。毎回愉快なところにあなた(話し相手)を行かせることができた。彼は話を聞く時、筆で記録を取ることを好んだ。粗雑にしかし大きな紙に飛ぶように書いた。私が述べると彼が書いた。私が話し終わると彼は指を用いて一点ずつ答えた。論理は明白で一語ずつ論題に迫るのであった。」談話するとき、毛沢東は梁漱溟に茶を勧め、自らは白酒を飲んだが、菜は不要で、話しながら飲み、十分に和やかであった。晩年にいたるまで梁漱溟は毛沢東との会談の思い出は新たであった。彼はインタビューされたときにつぎのようにのべた。「私が終生忘れがたいのは毛沢東の政治家の風貌と気迫(气度)だ。彼は革の長衣(皮袍子)を着て、ゆっくり歩いたり、座ったり、床に横になったり、十分にリラックスして落ち着いていた。彼は怒ることはなく、強弁もせず、話にはユーモアがあり、常に意外で意味深い言葉を使った。」梁漱溟は、彼自身と毛沢東との談話時の姿(举止)について話したわけではないが、彼の丁重な言い方(不苟言笑)から、何事をするときもまじめで厳粛な性格と談話の性格から推論するに、おそらく彼(毛沢東ではなく梁漱溟のことか 訳者)が当時着ていたのは学者の長衣で、瓜革帽をかぶり、机の片隅に厳粛訳者子できちんと座り、容貌は重々しく、談話の声は軽くも重くもなく、速さも早くもおそくもなく、まるで大学での講義であるかのようである。
 彼と毛沢東との最初の長い談話の内容は主として抗戦前途問題だった。梁漱溟が先に話し、大変率直に自身の抗戦の前途にある種の悲観失望があることを承認した。彼が延安に来たのはまさに共産党の意見を聞きたいからであった。彼の談話中、毛沢東は辛抱強く聞きながら、堪えずたばこを吸い、水を飲んだ。彼が話す終わるを待って、毛沢東は笑みを浮かべ、十分果断に、躊躇なく(斩钉截铁地)述べた。「中国の前途は大きく悲観する必要はありません。とても楽観すべきです。最終的に中国は必ず勝ち、日本は必ず負けます。この結果だけがありうるのであって、ほかの可能性は
p.293  ありません。」晩年になっても梁漱溟はなおはっきりと50年前毛沢東がこの話をしたときの断固とした語気を記憶していた。続けて毛沢東は、国内、国外、敵、我、友の三方の力量の対比、強弱の変化(转化),戦争の性質、人民の力量などを全面的に詳細に分析してみせた。最終的に再びまた中国の必勝、日本の必敗の光が結論であった(注 年譜によれば、毛沢東は、日本は小国で中国は大国。日本の兵力は限られており、大国である中国では分散せざるを得ない、日本の野心を欧州列強は許さない、世界の多くの国が中国の側に立っていると指摘した。年譜pp.115-116)。毛沢東の話は筋が通っており(头头是道)情理に会っており(入情入理)梁漱溟を敬服させた。梁漱溟によれば、抗戦が始まって以来、自分はこのように透徹した説明(鞭辟入里的文章)をみることがなかった。間もなく毛沢東は彼と梁漱溟との「中国必勝、日本必敗」の観点を、『持久戦を論じる』という書物中に書いた。同書は当時少なくない人の頭脳中の悲観失望の気分の克服に非常に重要な作用を起こしたのである。
 今回の談話は午後6時少し過ぎに開始され、翌日の明け方にようやく終わった。別れる時、梁漱溟は自身出版した二つの小冊子と40万言の『郷村建設理論』を毛沢東に贈り、毛沢東の教えを得られることを希望した。それゆえ二回目の談話は主要にはいかに新中国を建設するかをめぐって展開された。談話の前に毛沢東は梁漱溟に1枚の紙を見せた。そこには小さな字でびっしりと(密密麻麻地)批判(批语)が書き込まれていた。梁漱溟の『郷村建設理論』を読んだ時、そこからメモを取ったものだと言った。毛沢東は直截に(开门见山地)梁漱溟に告げた。貴方の著作は中国社会歴史の分析で独特のところがあり、多くの認識もまた正しいが、その主張の歩むところは改良主義の道であり、革命の道ではない。(そして)改良主義は中国の問題を解決できず、中国社会は徹底した革命を必要としている。続けて毛沢東は明確に指摘した。現段階の中国革命の重い責任はすでに中国共産党が担っており、共産党の革命で有効な道具(法宝)は党の指導、統一戦線そして武装闘争であり、核心の問題は階級と階級闘争である。梁漱溟は、毛沢東の自身への批評に同意せず、ことに毛沢東が階級闘争の作用を強調したことに同意しなかった。梁漱溟は言った、中国社会と西欧社会は同じではない、西欧は「個人本位」「階級対立」であり、中国は「倫理本位」「職業分岐(分途)」であり、階級や階級闘争は存在しない。彼は合わせてこの観点を詳細に説明した(注 年譜によれば、梁漱溟は、中国は階級闘争は存在せず:缺乏,階級分化は不明不強、上下流転相通、不固定で欧州社会とは異なると反論した。また中国資本主義は萌芽に過ぎず成功しないとも。これに対し毛沢東は梁漱溟は中国社会の特殊性を過度に強調していると反論し、梁漱溟は毛沢東は中国の特殊性の認識が不足しているとさらに反論した。年譜pp116-117)。彼が述べているとき、毛沢東は辛抱強く聞き、時にまた一言二言言葉をはさんだ。毛沢東は強調して述べた。中国社会は自身の特殊性がある、自身の伝統があり、自身の文化がある、これらはすべて正しい、しかし中国社会にはまた西欧社会と共通した(共同性的)一面がある。彼は梁漱溟が中国社会の特殊性の一面を重視するあまり、共通した面や一般的な一面を軽視したととみなした。梁漱溟は、毛沢東が
p.294   一般的な面を重視するあまり、最も基本的で最も重要な特殊的な面を軽視したとみなした。二人はそれぞれの意見があり、互いに譲らず、誰といえども説得はできなかった。
 その後の数回にわたる長時間の談話で主に討論されたのは国共合作、社会改造、全国団結などの問題である。梁漱溟は、当時、中国は二つの大きな課題(任務)を完成する必要があると考えた、一つは外に対して民族解放を達成すること、一つは内に対して社会改造(すなわち新中国建設)を完成すること。毛沢東は梁漱溟の観点に完全に賛成であるが、この二つの大きな課題の相互関係は、分けて話すべきではない、目前はすべては抗戦にすべては服従すべきであり、社会改造はただ抗戦のなかでのみ行うことができる。これに対して梁漱溟も同意を表明した。しかし彼は「今日民族が外に対するとき、我々自身で社会改造をのことを決定すること」を求めた。併せてこの決定はまさに抗戦のためにも必要であると。なぜなら第一に団結したのちに抗戦できるのであり、団結するには全国の各種の政治力量をして社会改造方面の意見を一致させる必要がある。第二に、抗戦には友好国の支持が必要であるが、社会改造の大方針が確立して初めて、国際上の友好が可能になるからである。梁漱溟によるこれらの分析を、毛はとても正しいと考えた。そこで梁漱溟は、すみやかに国家の基本方針(国是国策)を確定すること、併せて全国各地の開城商議、共同決定を希望した。毛沢東は梁漱溟の見方に賛成であるが、毛はもしも抗日のために団結するなら、一時嫌なこともするだろうが、社会改造問題は重大であるので、各方面の意見の一致はむつかしい。うまく行かなければ、当面の抗日に影響するかもしれない。それゆえに一歩歩み一歩話すしかない(少しずつ進むしかない)。当然また毛は表明する。もし国民党あるいはその他の方面が唱導して進めるのであれば、根本の意見交換をすることは、共産党は歓迎する。併せて梁漱溟に伝える、目下共産党の代表周恩来と国民党代表の陳立夫らの人々が、今武漢で両党の共同綱領起草について意見交換中である。共同綱領と梁漱溟のいう国家の基本方針とは大差のないものであるから、もし両党が眼前の抗戦に重きを置いて全国で拡大するなら、新中国建設を含めすぐに進むことだろう。それゆえ毛としては梁漱溟が武漢に早く戻り、推進援助することを希望すると。
 1月25日に梁漱溟は彼の延安旅行を終えて西安に戻った。それから開封、曹州、徐州などの地を経て3月初、武漢にもどった。


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福光 寛  中国経済思想摘記
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