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#大仏

音羽護国寺について

                           福光 寛     護国寺は5代将軍徳川綱吉(正保3年1646-宝永6年1709)が母桂昌院(寛永4年1627-宝永2年1705)の願いにより天和元年1681年に建立したもの。護国寺はその後、徳川将軍の祈願寺(shogunate prayer temple)となった。江戸中期の仁王門(Nio-mon:Deva gate:a temple gate with the statute of a Deva king standin

鎌倉大仏

 鎌倉大仏は台座からの高さは13.4M、仏身は11.3Mとされる(銅造阿弥陀如来坐像 重要文化財指定明治30年1897年・国宝指定昭和33年1958年)。他方、東大寺の大仏は仏身だけで15M, 台座を合わせると18Mとされる。大きさで言えば、鎌倉大仏は東大寺大仏にかなわない。東大寺の大仏は開眼法会が天平勝宝4年752年とされる。鎌倉大仏は鋳造を始めた年が建長4年1252年と分かっているが、完成した年つまり開眼法会が行われた年が分からない。歴史的由来は東大寺大仏は8世紀に遡り、

吉祥寺の大仏と経蔵

 このお寺は吉祥寺の名前の由来として有名。有名人のお墓もある。しかし現在では訪ねる人は少ない。大仏と経蔵は一見の価値があるように思うが、現状は風雨にさらされるに任しているように見えるのは残念だ。  南北線の本駒込の2番出口から下りてすぐにある諏訪山吉祥寺はもとは太田道灌が江戸城築城の折に、城中に開基されたお寺(1458年)。その後、現在の水道橋付近にうつり、現地に移ったの1657年明暦の大火のためとされる。漢学の学問所として栴檀林が置かれ、多数の学僧が集った。吉祥寺大仏は17

天王寺大仏

 谷中大仏、元禄大仏ともいう。今は亡き谷中の五重塔で有名な天王寺。その天王寺を今、支えているのはこの大仏である。天王寺は日蓮の弟子日源により文永11年1274年に長耀山感応寺として開山。江戸幕府が開かれて後は、永勝院、春日局らの帰依をうけて、将軍家の祈願所の役割を果たし伽藍を整備した。  そうしたなかで大仏は元禄3年1690年の鋳造(手の形は合掌印である)。享保7年1722年鋳造の吉祥寺大仏より約30年前である。東京都内の江戸時代鋳造の大仏の中で天王寺大仏は比較的大きなものと

東京大仏 乗蓮寺

 板橋区赤塚にある東京大仏に行ってきた。この像の大きさは基壇から高さ13m。少なくとも都内では一番大きな仏像かもしれない。青銅製である。昭和52年1977年4月1日の開眼であるので、古いものではないが、大変品のあるお顔だ。印相は上品上生、鎌倉大仏と同じ形だ。     大仏の周辺には、多数の船形墓石浮彫、庚申塔なども置かれている。  お寺は名前は赤塚山乗蓮寺。応永年間(1394-1428)に創建された浄土宗の寺院。創建時は板橋区仲町あたりにあった。その後、中山道沿い(板橋区仲宿

中山法華経寺について

 法華経寺は日蓮(1222-1282)に帰依した富木常忍(日常)が下総国若宮に法華堂を建てたことに始まる(1253年)。ところで日蓮は1260年に浄土門徒宗の襲撃を受けて富木の屋敷に落ち延びる。このとき地元の豪族太田乗明の助力もあり、法華経寺の基礎が固まった。参道を進んで最初に左手に現れるのは祖師堂(1678 重要文化財)。比翼入母屋造りという特殊な構造の屋根。右手正面には前田利光(1559-1628)寄進の朱塗りの五重塔(1622 重要文化財)。高さ98尺(30M)。そして

瀧泉寺(りゅうせんじ)大仏

   世間的には目黒不動尊であるが、実は瀧泉寺というお寺である。なお瀧の音読みはロウだが、それをリュウと読ませている。江戸期の伽藍はすでにないが、天和3年1683年鋳造の銅造大日如来坐像が本堂の後ろに健在である。私は目黒不動尊は十数年ぶりの再訪だったが、緑の中のお姿は大変美しく感じた(大仏像として諸像と比較するとスリムで若々しく、若い青年のようにも感じる。手の形が法界定印あるいは禅定印とよばれるものであり、大日如来である。)。高さ385cm、座高281.5cmとのこと。  参