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2020年8月の記事一覧

上野寛永寺について

    徳川家康(天文11年1542年-元和2年1616年)の信頼が厚かった天海(生年不明-寛永20年1643年)が徳川家光(慶長9年1604年-慶安4年1651年)から寺領を受けて寛永2年1625年に開創した天台宗の寺。天台宗関東総本山。江戸城の北東の鬼門(positioned the north-east direction, an lucky direction or the demon gate of Edo city )にあって京都の比叡山延暦寺が平安京に対してそう

上野東照宮について

   徳川家康(天文11年1542-元和2年1616)の死の翌年にあたる元和3年1617年、日光に東照宮が造営された。東照宮の名称は太陽神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)になぞらえて家康の神号を東照大権現としたことによる。元和4年1618年に江戸城内紅葉山にも東照宮を建立。その後元和9年1623年に、一般志士に江戸近くに参拝の機会を与えようと藤堂高虎(弘治2年1556-寛永7年1630)が自身の屋敷地であった上野の山に祠を設けたのが上野東照宮の始まり。  高虎の死後も、長

音羽護国寺について

                           福光 寛     護国寺は5代将軍徳川綱吉(正保3年1646-宝永6年1709)が母桂昌院(寛永4年1627-宝永2年1705)の願いにより天和元年1681年に建立したもの。護国寺はその後、徳川将軍の祈願寺(shogunate prayer temple)となった。江戸中期の仁王門(Nio-mon:Deva gate:a temple gate with the statute of a Deva king standin

小石川傳通院

                             福光 寛  永井荷風(明治12年1879-昭和34年1959)は随筆「傳通院」(明治42年1909年頃)において、パリにノオトルダム寺院があるように「私の生まれた小石川をばあくまで小石川らしく思わせる」るものは「あの傳通院である」としている。  賛美の言葉が続く。「滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの傳通院である。」「傳通院の古刹は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありま

芝増上寺について

                          福光 寛       聖聡上人により明徳4年1393年に現在の麹町から平河町にかけて開かれた浄土宗鎮西派の大本山。浄土宗の中では、西の知恩院に対して東の大本山の位置。慶長3年1598年に江戸城拡張のため現在地に移された。徳川家康の崇拝帰依を受け、家康の葬儀の祭礼はここで行われた。三河以来、徳川氏が浄土宗であることによる。以後、寛永寺とともに徳川将軍の菩提寺(shogunate family temple)の役割を演じる。幕府

天王寺大仏

 谷中大仏、元禄大仏ともいう。今は亡き谷中の五重塔で有名な天王寺。その天王寺を今、支えているのはこの大仏である。天王寺は日蓮の弟子日源により文永11年1274年に長耀山感応寺として開山。江戸幕府が開かれて後は、永勝院、春日局らの帰依をうけて、将軍家の祈願所の役割を果たし伽藍を整備した。  そうしたなかで大仏は元禄3年1690年の鋳造(手の形は合掌印である)。享保7年1722年鋳造の吉祥寺大仏より約30年前である。東京都内の江戸時代鋳造の大仏の中で天王寺大仏は比較的大きなものと

中山法華経寺について

 法華経寺は日蓮(1222-1282)に帰依した富木常忍(日常)が下総国若宮に法華堂を建てたことに始まる(1253年)。ところで日蓮は1260年に浄土門徒宗の襲撃を受けて富木の屋敷に落ち延びる。このとき地元の豪族太田乗明の助力もあり、法華経寺の基礎が固まった。参道を進んで最初に左手に現れるのは祖師堂(1678 重要文化財)。比翼入母屋造りという特殊な構造の屋根。右手正面には前田利光(1559-1628)寄進の朱塗りの五重塔(1622 重要文化財)。高さ98尺(30M)。そして

ニコライ堂について

 いわゆる「ニコライ堂」(Nikolai-do :Holy Resurrection Cathedral)である。ニコライとは正教会布教のため文久元年1861年に来日したニコライ・カサートキン(1836-1912)のこと。「ニコライ堂」はその発願が実り明治24年1891年に竣工。日本で最大のビザンチン様式(Byzantine style)の建築として知られる(よく指摘される概数によれば、高さ35m  ドームの直径15m  面積805㎡ )。大正12年1923年の関東大震災で被

根津神社

 江戸時代の根津権現社。明治にはいってからの廃仏毀釈(haibutsu-kishyak: a movement to abolish  Buddhism in Meiji period)で神社(Shinto shrine,  Shito is indigenous religion of Japan, important factors of Shinto are polytheism, and worship to everything around us, ancesto

湯島聖堂について

                           福光 寛  湯島聖堂は元禄3年1690年、将軍綱吉(正保3年1646-宝永6年1709)がこの地に孔子廟(confucius temple)を祭ったのが始まり。綱吉の母桂昌院(寛永4年1627-宝永4年1705)もここにきて、以下を詠じた。  「萬代(よろづよ)の秋もかぎらじ諸(もろ)ともに もうでて祈る道ぞかしこき」  寛政9年1797年将軍家斉(安永2年1773-天保12年1841)のときに、規模を拡大し、昌平坂学問

瀧泉寺(りゅうせんじ)大仏

   世間的には目黒不動尊であるが、実は瀧泉寺というお寺である。なお瀧の音読みはロウだが、それをリュウと読ませている。江戸期の伽藍はすでにないが、天和3年1683年鋳造の銅造大日如来坐像が本堂の後ろに健在である。私は目黒不動尊は十数年ぶりの再訪だったが、緑の中のお姿は大変美しく感じた(大仏像として諸像と比較するとスリムで若々しく、若い青年のようにも感じる。手の形が法界定印あるいは禅定印とよばれるものであり、大日如来である。)。高さ385cm、座高281.5cmとのこと。  参