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ギャップイヤーのすゝめ

以前、自己紹介のnoteで書いたのですが、私は2016年、28歳という一般的には働き盛り・キャリアの転機と言われるようなタイミングで仕事を辞め、アメリカへと旅立ちました。1~2ヶ月というようなものではなく「お金が底を尽きるまで」を期限として半分無計画、あるのはアメリカでのやりたいことリストだけという状態でした。
仕事をしていなかった期間は合計1年半ほどで、アメリカに約1年、その後就職先が見つかるまでの約半年の間を定職に就かずに過ごしていました。本当は帰国後すぐに就職活動を始めようと思ったのですが、帰国した段階で祖父が末期癌であることが発覚し、両親と共に祖父の最後を看取るための時間として使いました。この1年半の時間とお金の使い方については、一切の後悔がありません。むしろ、今まで行ってきた自分自身の意思決定の中で人生最良の選択であり、今後の人生の中でもこれを超える意思決定はないのではないだろうかと感じます。
帰国後、コロナウイルスの蔓延による世界的なパンデミック、ウクライナ戦争を発端とする物価上昇など海外渡航を躊躇させる要因がたくさんあり、振り返ってもあの時の意思決定はクリティカルでかけがえのないものだったと強く思います。

もし仕事を休みたい、辞めたいと思う人がこの記事を読んでくれていたとしたら「思い切って辞めても、意外と人生なんとかなるもんよ」ということを伝えたいですし、辞めなければ得られない経験というのもあるということを知っていただけたら、と思っています。


誇りさえ感じられれば、働かずに寝てたっていい

大学時代の貴重な経験として、「ヤップ島」という石貨文化が残る島での活動経験があります。とあるNPO主催のプログラムで、引率する教員と数名の仲間と一緒に島にわたり、お金を一切使わずに現地の人々と共に2週間滞在して「持続可能性」について身をもって体験するというものでした。
ここで得られた体験は今でも強く自分の中に残っており全てを1つの記事に描き切ることができないほどなのですが、キャリアの観点での驚きは明確に覚えています。
私がホームステイをさせてもらった家庭では、母親が働き父親は働いていませんでした。職がないとかそういうことではなく、働けるのに働いていませんでした。そのことについて話を聞いたら「俺は家を守り子供と一緒にいることに誇りを感じている。」とホストファーザーは答えました。そんなかっこいいことを言っていながら昼寝をしてたりするのですが、家族仲自体は円満でホストマザーがその点を責めることはありませんでした。(裏ではどうか知りませんが、、、)
詰まるところ、この人たちは「自分が誇りに感じられれるかどうか」が重要な価値観であり、「何をしているか」や「どのような成果があるか」などは重要ではありませんでした。代々受け継がれる田畑や海、船があり、それを引き継いだ仕事につき、近隣と協助の関係の中で生きています。資本主義が入ってきたのが比較的最近で、それまで流通する貨幣が存在していなかったので、価値を金銭に置き換えるという考えが薄いのです(ここは家庭や島内のエリアでも異なるようでしたし、この体験から15年経った今はだいぶ変わっているでしょう)。それぞれがやるべきことをやりながら、他者と比較せずに助け合って生きることが当たり前でした。

「誇りさえ感じられれば働かずに寝てたっていい」

この言葉からとても深い真理を、天啓を得たような気分になりました。青空の下で日に焼けてボロボロになった長椅子に横たわり、昼寝をするこの姿はさながら涅槃。詰まるところ重要なのは自分の心持ち次第であり、何をしていたっていい。逆に言えば誇りが持てないのであれば何をしていていても、どれだけ稼ごうとも、どれだけ賞賛されようと、どれだけステータスが高かろうがダメなのです。「俺は寝ることに誇りあるし」と自分に言い聞かせて仕事をしない楽な道を生きよう、ということではありません。「本当に心から嘘偽りなくそう思えているか?」が大事であり「そう思えている」ことを選択しろということです。(そうでなければ、優しく強い男が奥さんだけに働かせて自分は寝るという生活を続けることはできないでしょう)実はこの誇りを持つ、というシンプルなことが当時日本で就活を開始しようとしていた自分には難しいことなのでした。

妄想≒理想というレールから脱する

私はこの体験の後に新卒での就職活動を辞めました。なんとなくステータスや知名度の観点でのエントリーをしていたことに気がつき、自分のやりたいことがないならやらなくていいだろう、と思いました。少なくとも履歴書やエントリーシートに添付するスーツ姿のポートレイトは明らかに自分らしくはなかったし、嘘や虚飾が個人/企業でまかり通るこの採用方式に自分をフィットさせることはできなくなっていました。
一方で新卒というカードをなくすことや、安定した企業に入るチャンスを諦めることには流石に恐怖がありました。両親祖父母含めて公務員で安定が当たり前の中で育ち、会社は定年まで勤め上げるものだと教えられていたからです。ホストファミリーが教えてくれたことを頭ではわかっていつつも、家庭環境によって育まれた成功者像が呪縛として「お前は落ちこぼれだ」と何度も問いかけてくるのでした。
そんなとき、突如日本を東日本大震災が襲いました。地震と津波で日本社会が停滞していた頃、何もできない自分が役に立てることがあるのではないかとボランティアに行ったり、東京から実家までおおよそ500km自転車で旅をし、いろいろなひとと触れ合い、話をしてきたのですが、どうやら自分は勘違いをしていたということに気がつきました。「困っている人を助けるのは当たり前」、そんな価値観で来ている人が大半で、自分がやりたいことを探しにくるところではなかったからです。求められている人がたくさんいるところにいけば感謝されるのは当たり前で、他者を助けることで楽になろうと安易な行動を取った自分に気がつき、その烏滸がましさと浅はかさを強く恥じたことを覚えています。

うだつの上がらないキャリアの始まり

新卒というカードを使わないまま社会に出た自分は、やりたいことがないなら、見つかるまで待とうという考えにシフトしました。偶然声をかけてもらって入ったアルバイト先は小さな制作会社でした。(今ではその会社は界隈では有名となり、先進的なクリエイティブエージェンシーとなりましたが、働きはじめた当時はそんなことになろうとは思いませんでした。)
そこそこ名の知れた大学を出ている関係上、同期のキャリアは自分に比べると華々しいものでした。有名で大きな会社で順当なキャリアを歩み、結婚をし、子供を育て、家を買い、ボーナスは3桁、士業資格の取得をし、、、いわゆる真っ当に成功した人生を歩んでいるのを横目に見て侘しい気持ちになったこともあります。
かたや自分は給料はほぼ最低賃金、上がる見込みもなく、ボーナスもなく、出費を抑えるために昼飯に豆腐やちくわを食べたりしながら糊口を凌ぎ、少ない給料で楽しめる娯楽を探し、古本屋を回り、名画座で2本1000円の映画を見て、松屋や富士そばで飯を食い、同じような境遇の友人とファミレスでろくに注文もせずにドリンクバーだけで深夜過ぎまで粘り切り、永遠にうだつの上がらない会話をしていました。そんなことを本当に毎週、何年もの間繰り返していました。ちなみに自分が足繁く通っていたのは渋谷道玄坂上の職場から至近の南平台デニーズで、広い窓とアメリカっぽい内装の配色が「ここは俺が憧れるアメリカとのミッシングリンクなんだ」と思っていました。コーヒーを啜りながら持ち込んだ古本(だいたいアメリカ文学)を読み「ああ、アメリカ行きたいな」という思いが漠然と強くなりました。

仕事も最初の数年はアシスタントとして業務にあたり、運用更新やルーティンのような業務、書類をひたすらシュレッダーにかけるような雑務もたくさんこなしました。1-2年経つと自分がフロントに立って仕事を回し、尊敬できる上司や同僚が増え、いつの間にかある程度立ち回れるようになり、やりがいを感じている自分がいました。別に意思を持ってデザインやクリエイティブの道を志したわけではないのですが、少なくとも自分自身が「少しは価値があったのかもしれない」と思える仕事ができ、それが小さいながらも社会の価値に繋がっているような気もしました。ふとホストファミリーから与えられた言葉を振り返ると「少なからず誇りは持てていそうである」という感じでしょうか。その価値を生むためであれば深夜すぎまで残業をしてでも少しでもいいものを作ろうとしていたし、いろいろなことに飛び込んでチャレンジをしていました。

消化されないやりたいことリストと退職

そうした仕事をしているうちに、自分自身の本当にやりたいことが見失っていることに気づいた出来事がありました。それは23-4歳の頃に作った「やりたいことリスト」が数年経っても一向に消化されないことでした。
例えば登山に行く、写真を撮る、旅行に行く、文章を書き始めるといった程度のものです。いつでも思い立ったらできそうなものでさえ消化ができていませんでした。こんな簡単なことすらできていないのは、いつのまにか自分を犠牲にして仕事に向き合い、自分がやりたいと思ったことから逃げているからだと思いました。リストの中で達成が難しかったことは「アメリカをロードトリップする」であったり「アメリカ人と友達になる」だったり「アメリカの映画館で映画を見る」だったり、めちゃくちゃバカっぽいですがそんなことばかり。リストの中身は全部で100個くらいあり、面倒なのでその全てをアメリカに行って解決しようと考え、そのためには長い時間が必要でした。
当時の自分は27歳くらいで、会社の中では割と将来を期待されていたのではないかと思います。退職の報告を社長にしたときに「ゆくゆくはでシニア(一般的にはマネージャー)にしようと思っていたんだけどな〜」と言われたりもしました。自分でもこのタイミングでキャリアをストップさせることは気がかりではありましたし普通に勿体無いとも思います。30歳もそろそろなおっさんが留学とかでもなく(周りのデザイン関連のイケてる人は海外美大とかに行く)、ただアメリカをブラブラするだけというのはキャリアの何の足しにもならずマイナスでしかないでしょう。加えてIT業界、デザイン業界はトレンドの移り変わりが早く数年のブランクは大きな穴になる怖さもありました。
しかし今キャリアを優先して昇格したり転職しようものなら、もう二度とアメリカにはいけないだろうと直感的に思いました。そんなときに、別に元から成功した人生でもなく、歩いているのはすでに外れたレールの上。自分の将来に期待するのを辞め、実現するかどうかもわからないキャリアのことを考えるのを辞めました。意思決定は思ったよりも簡単にできました。戻ってきて30歳ならまだ転職もできるだろうし、なんとか食いつないで、少ないけれど納税して、他人に迷惑をかけなければ何をしたっていいじゃないかと。最後にどういう死に方をしたとしても、誇りがあって後悔がなければどんな人生でもいいだろうと思いました。
それに気づいた翌週に「たぶん半年後くらいに辞めると思います」と当時の上司に伝えました。そこからアメリカに旅立つまでの間に、当時勃興した格安の話し放題英会話サービスで日常英会話の訓練をして、トランプ大統領が当選し暴落したドルに持ち金の日本円を全て変えて、最安の語学学校への入学手続きを済ませました。

帰国と再就職

めでたくアメリカでやりたいことリストのほぼ全てを達成し、全財産をほぼ使い切り、カードに残ったわずかな金はスキミング被害で消失し、文字通り無一文になって日本に帰還しました。29歳無職貯金なし。自分史上一番シビアなステータスですが、心持ちは晴れ晴れしていて気持ちが良く、失うものがない気楽さがありました。全財産とキャリアと天秤にかけた一世一代のアメリカでの生活は自分の人生の中の大きな達成事項でした。キャリアにおけるプラスには全くなっていないですが、人生におけるプラスにはなっていました。
いまでも、一番仲のいい友人から「あのときの氏家さんの選択は本当に尊敬しています」と、たまに会うときに言われることがあります。僕自身もその時の選択が本当に良かったと思っています。

その後落ち着いたあとに、さすがに働かないとと思い就職活動を再開しました。地元で働くのも良いかもしれないと感じ、仙台と東京で職を探しました。何人かのエージェントと会話をしながら求人を紹介してもらいましたが、予想通り自分のキャリアのブランクは厳しく判定され、退職前よりも低い金額でオファーをされることがほとんどでした。地元仙台の求人はさらに無く、IT系・クリエイティブ・デザインに関する求人・ポジションはほとんどでてきませんでした。まぁ仕方ないかなぁと思いながら選考に進んでいるときに、突然前職の上司からFacebook経由でメッセージが届きました。(詳細は前職の記事に載っています)

捨てる神あれば拾う神あり、ということでこのまま社長直通面談で即採用決定。リファラル経由ということもあり、きちんと第三者のスキルチェックを経ることができたので、エージェントが打診してきた条件よりも遥かによい条件・環境で社会復帰をすることができました。前職で一緒に働いてきたときには、この上司はなかなか厳しく自分のことをどのように評価してくれているかはわかりませんでした。ただ、数年前に一緒にやっていたときの姿を覚えていてくれて声をかけてくれたのだと思います。一生懸命何かに取り組んでいれば、見てくれている人はいるものだとその時に感じました。

冒頭にも書きましたが、この時はお世話になった祖父が最期の時を迎えようとしていました。自由な時間の中で、人の最後を見取れる機会はないとおもい仕事の復帰を祖父の葬儀後にしてほしいと連絡をしました。自分の意思を汲んでもらい、入社の時期を調整し、社会復帰を果たしました。その時にはもう30歳になろうとしているタイミングでした。

自分らしいあり方を求める結果がギャップイヤー

人生は一度しか無くて、何かに挑戦できるタイミングは限られている、ただしくいえば「然るべき時」があるように感じます。自分で言えばアメリカを車中泊で旅をし、自分が好きな建築や場所を巡り写真に記録することは、体力・感受性の両面からなるべく若いうちに経験をしておくほうが良いと思いました。
ギャップイヤーを取ったから、仕事にブランクが空いたからといって仕事ができなくなることは私の経験上ありません。変わるのは周りの環境であり、その環境に付いていくために努力をすれば復帰できます。
個人的には、一度つけた能力は実は思ったより成長も退化もしていなくて、どんな経験をするか、それをどう活かすかを考えることができれば、大抵の場合なんとかなるのではないかと感じています。
キャリアを一時中断するのは誰だって不安がつきまといます。築き上げた功績の価値も今の自分の視点から見るか、人生の終わりから見るかから見るかによって変わります。自分としては人生の終わりから見たときにより大きく輝くであろうことに、時間を割くべきだと思っています。キャリアやステータスなど自分の外側にあるものに自分の誇りを求めれば崩れやすく不安定になります。自分自身の内側に誇りがある場合は何をしていても自分らしくいられるのではないかと思っています。

ギャップイヤーについて力説していますが、ギャップイヤーを取ることで価値観が180°変わったり、本当の自分が見つかることはないでしょう。得られるのは自分の人生に対する肯定感と、美しくかけがえのない思い出や友人、そのときにしか得られない学びであり、それ以上でも以下でもありません。その経験を活かすかどうかも自分次第です。

私はアメリカから帰って来てから、自己紹介のネタが1つ増えました。転職やイベント等で初めて会う人への第一印象が「すこし変わった人」になります。それはほんの些細なことですが、自分のアイデンティティの一部となり、折に触れて自分のしてきたことや歩んだ道のりを肯定してくれる要素になりました。

無責任につらつらと書いており申し訳ないと思っていますが、もし心の奥底になにかやりたいことが眠っていたり、諦めてしまったことがあるとしたらそれをもう一度掘り起こしてはいかがでしょうか。自分を労れるのは自分だけで、自分の才能や感性を養うことに長い時間をかけて向き合うのは人生という視点でみればとても意味や価値があるものだと信じています。辞めることで進める道や、見えてくる景色もあるということを覚えてほしいなというところで、筆を止めたいとおもいます。

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