見出し画像

『「大食い」する奴はクソ』が消失した話

※この記事では、本音を書いています。ですが、その本音があらわすのは間違いなく「筆者の未熟さ」であります。読み進めていただく方は、その点を留意ください。

 「大食い」という行為は、今に限らずとも昔からコンテンツ化されています。テレビはもちろん、地方の名産を使った大食い大会もあるほどで、エンタメのコンテンツとして長らく愛されています。

 ただボクは、その「大食い」というコンテンツが大嫌いでたまりませんでした。というより、なぜだかここ最近になって特に嫌悪感を抱くようになってしまったのです。

 どれくらいの嫌悪感か…。

 油断してしまうとその動画のコメントに、明確に相手を攻撃する意図をもってコメントしたり、コメントしない場合には明らかな攻撃の意図をもって攻撃するための動画コンテンツを創ろうかと真面目に考えるほどでして、そんなことをしないためにブロックしたり、興味がないことをオススメのアルゴリズムに教え込むことをしているほどでした。

ただそんな自分が嫌だったのです。

 本当に憎むならとっとと攻撃してしまえばいいのに。それができないならスルーしてしまえばいいのに。どちらの行動もできないで、ただイライラして「大食いコンテンツ」を公開してそれを楽しんでいる "ヤツら" にいつまでもうだうだとネガティブな感情を抱いている自分が嫌だったのです。

 そんな自分に転機が訪れたのは、自分自身に問いかけたある一つの質問からでした。

 今回は、その問いかけからわかった『今後の人付き合いに役立つ考え方』をシェアしていきます。


結論「わたしと在り方が違うだけ」

私は「自分と違う人を許容できる人で在りたい」

 結論から述べると「在りたい姿」の違いを、私が勝手に押し付けて判断してイライラしているだけであることに気づきました。

 実体験をもとにお話していきます。

そもそも「私はどう在りたいんだろう」

 最初に自分に問うたのは、他人は無視して「自分はどう在りたいか」でした。やはりイライラしている自分はしんどいし、誰かを攻撃するためにコメントしたりコンテンツを創る自分をとても許容できなかったからです。

 在り方というと堅苦しい感じだし、誰かに「キミってどう在りたいの?」なんて聞かれても答えに詰まる人が結構いるんじゃないかなと思います。なので、自分としては死ぬ時にどんな性格の自分で死ねたらいいかってのをイメージします。

 その問いかけにはやはり「他人を許容できる人でありたい」と答えました。言い換えるなら「人それぞれだよね。でいける人がいいな」といった感じでしょうか。

 なぜなら、都度イライラするのってめっちゃしんどいし、なにより他人を攻撃したくなってしまう「意地悪な悪意の芽」を摘んでしまいたかったのです。

 自分の在りたい姿が決まったあと、次にボクが意識を向けたのは「私の中の何がそこまでイライラさせるのか」という、ボクの中に眠る悪意の芽が育ちうる "土壌" でした。

偏見と正当化が招く "他者への明確な悪意"

 自らをイライラさせる原因。それは「今までの努力による偏見と正当化」でした。

 ボクは中学時代から主にメンタル面で相当拗らせてしまって、その解決には20代後半まで時間を割くことになりました。だいぶ拗らせましたね。

 自分自身の問題を自分なりに理解して許して解決するためには、必然的に記憶にある幼少時代から、イベントというイベントを総当たりして覚えている範囲で振り返りながら自分の気持ちを言語化し、自覚し、そのイベントの関係者への謝罪を含むコミュニケーションを取るという…。

 はた迷惑な手法を何年も何年も、何度も何度も繰り返すことによって、自分の感情の整理や思いを言語化し、意見を持つことができるようになったのです。それから数年たった今では、よくやってきたなーと自分を褒めてねぎらうと同時に、ここまでやってきた自分にプライドや誇りを持つようになったわけです。

 誇りを持つだけならきっと何も問題にはならなかったでしょう。ただ誇らしく胸を張っているだけですから。ですが、ボクが育ててきたのは他にもプライドがあったようで、そのプライドによる偏見が攻撃の意図へと変貌していました。その偏見とは

「大食いは摂食障害であり、本質から逃げているだけのクソ」

 という自分が辿ってきた過去の正当化とそれによる偏見からの攻撃でした。

「相手は〇〇に違いない。」という想像力の欠落

 自分が辿ってきた過去の道のりは今の自分を形成しているので、今の自分に満足しているからこそ、過去の出来事と向き合うことは大切なことでやらなければならないことだ。と思うことになりました。

 しかしその思いを抱くことによって、大食いコンテンツの制作側に対しての怒りと偏見が爆発します。

「どうせ大食いは食べた後に吐いているんだ。じゃあ8キロくらいのカレーを咀嚼しておいしそうにしたあと、ゴミ袋に吐き出して8キロ完食する動画出してやろうかな」

 実際に吐いている人もいるかもしれませんが、ちゃんと食べている人もいるのかもしれません。でも大事なのはそんなことではなく、これほどまでに敵意に満ちた思いや行動を考えてしまう自分の中身が問題なのです。

自分の中の問題「悪意の芽」イメージ

 そこから一度吐き出してしまおうということで、イライラしている理由やもし目の前に大食いの当人がいたとしたらなんと言いたいかを一人でぶつぶつ言うことにしたのです。

 すると、やはり「大食い=摂食障害=心理的問題の現れ」という構図があるため、本来大食いの人がやるべきことは「心理的問題(トラウマ)」の解決であり、心理的問題の回避行動である「摂食障害(大食い)」を許容して居場所を見出すのは間違っている。という自分の価値観の正当化で、自分なりの "正義" を振りかざしているということがわかりました。

 この意見の最大の問題点は、自分がありたい姿である「他人を許容できる人」にはあるまじき "相手不在" の意見であり世界であるということです。要するに相手への尊厳や配慮が欠落している状態です。

 ここまでで自分の意見の主張が終わったので、ボクが次に意識を向けたのは「ではなぜ大食いの人たちは大食いを続けるのか」という相手の立場になるということでした。ここで先ほど欠落していた "相手を慮る" という想像力を発揮するのです。

「こんなに喜んでくれるならやりたい!」

 相手になって、自分が提供している「大食い」というコンテンツをとらえてみるとどうでしょう。とても悩んでいた「摂食障害」という問題が「大食い」というたくさんのユーザーが喜んでくれるコンテンツになる瞬間があるのです!

 これってイライラして攻撃の対象としていた人からすると全く違う感覚なんです。そうですねー…。やっと居場所を見つけた!といった感覚で、ほっとする感じや嬉しい感じさえ漂ってくるのです。その瞬間わかったんです。

「在り方が違うだけなんだ」

 ボクは人生を通してでいうと「死ぬ時にやり切ったと言える人で在りたい」という姿をイメージしています。なので人生を通した在りたい姿を構成する要素として「他人を許容できる人」というのがあるといったところです。

 ですが大食いの当事者の在り方を自分なりに探ってみると「たくさんの人を楽しませる人」がありたい姿と言えるのかもと思ったんです。

 さぁここで、解決です。なぜなら、この大食いの方の在り方である「たくさんの人を楽しませる人」というのは、ボクが大切にして誇りやプライドとしてきた『過去の問題と向き合うこと』が必要ないんです!

 別に過去、親に虐待されたり同級生に虐められたり大失恋したりして心に傷を負った結果、食によって一時的でも逃れることができたことがあって、それが習慣化したとしても、いま現在、志している「たくさんの人を楽しませる人」になるにはなんの影響もないのです。要は障壁になってさえないのです!

 一方でボク自身はというと「死ぬ時にやり切ったと言える人で在りたい」ですから、過去のモヤモヤがあった日には、死に際にふと思い出して「あの人に謝っておけばよかった…」と最期の最期に後悔する要素になるかもしれないんです。だから過去に蓋をすることなんてボクにはできなかった。だからこそはた迷惑な手法を使ってでも自分なりに納得する必要があったのです。

 ということでわかったこと。それは

在りたい姿が違うだけ。
ウチはウチ、ヨソはヨソ。

 たとえ自分の価値観に反するような言動をする人だとしても、その人なりの在りたい姿にはそれが必要だからそうしているだけだし、自分にはその方法がなくても自分の在りたい姿に到達できるというだけだったんです。

 そして、その在りたい姿を達成すればするほどに自信や誇り、プライドが育つことがあります。今回は、その中のプライドが他人への攻撃へと転じてしまったが故の怒りだったというわけです。

まとめ

 さて、大変長い記事になりましたがカンタンにまとめて終わりたいと思います。

  1. 100人いると100通りの在りたい姿が形成される

  2. 在り方が違う人を見ると間違いだと認識し正したくなる

  3. 『私の「在りたい」≠誰かの「在りたい」』

 これって意見が違ったり働き方が違う人に対して考えるとすんごい楽になる考え方です。あの人はこうしてるけど、私には必要がないからそれでいい。だって私がこうなりたいだけだから。これって我が道を行くって感じで最強じゃないですか?

 ちなみにこの事実に気づいてから大食いの動画が流れてきたので見てみました。

 気づく前とはうって変わって、ただの動画としてブロックする気も批判する気もなくなって、「クソなやつ」が完全に消失したことにさすがに驚いてしまいましたとさ。

いいなと思ったら応援しよう!