決めつけてはならないとき・決めなければならないとき
先月、COVID-19は5類感染症に移行しました。決して終わったわけではなく、これからも気をつけていかなければならないのはもちろんなのですが、これからは「withコロナ」、すなわちCOVID-19のリスクを常に意識しつつ、通常の生活を送っていかねばなりません。これを機会に、2020年1月頃に始まったCOVID-19に対する対応について、検証してみる必要がありそうです。瀬名秀明らによる『知の統合は可能か: パンデミックに突きつけられた問い』[1](時事通信社、2023)はまさにそのための本といえます。瀬名秀明さんはSF作家ですが、2009年に『インフルエンザ21世紀』という本を書かれていて[2]、以前それを読んで衝撃を受けたので、今回も読んでみたかったのです。
日本におけるCOVID-19への対応はなぜ迷走したのか、専門家がお互いに批判し合うのではなく、知を統合して対応することはできなかったのか、がこの本のテーマです。前半部分は、東北大学の各分野の「専門家」に対して瀬名さんとサイエンスライターの渡辺さんがインタビューする、という構成です。インタビューに答えているのは
ドメイン専門家 -- 公衆衛生学(小坂健先生)、ウィルス感染症学(押谷仁先生)、災害医療(石井正先生)
社会学の専門家 -- 社会心理学(大渕憲一先生)、法学(飯島淳子先生)、宗教人類学(木村敏明先生)
ドメインと社会を結びつける科学コミュニケーションの専門家(野家啓一先生、本堂毅先生)
という方々です。COVID-19のようなパンデミックへの対応には、感染症学のようなサイエンスだけでなく、社会学や科学コミュニケーションを含め広く人類の叡智を結びつける必要があることを感じさせます。
専門家への信頼喪失
パンデミックの対策には科学的な知見が不可欠です。しかし、専門家のアドバイスを受けて総合的に判断するのは為政者の役割です。本来はそうなのですが、COVID-19の対応においては、アドバイスを受けても意思決定は難しい、為政者がぐずぐずしているうちに、専門家側がしびれを切らして自ら発信をする、という場面が何度も見られました。新型インフルエンザ等対策有識者会議の尾身会長は「ルビコン川を渡る」という表現をされていましたし、本書でも西浦先生の「このまま対策をしなければ42万人が死亡する可能性がある」という言明などは科学者としての一線を越えていたのではないか、という議論が繰り返されています。2020年3月に放映されたNHKスペシャル「パンデミックとの闘い~感染拡大は封じ込められるか~」では、押谷先生・西浦先生を中心とするクラスター対策班がすべてを仕切っているような印象を与え、押谷先生・西浦先生に批判が集中することにもなりました。
様々な専門家の間で意見が異なっていたことも、専門家への信頼を失わせることになりました。テレビのワイドショーなどでよく出演していた上昌広医師や岡田晴恵教授は、はっきりと専門家会議に対して異を唱えていましたし、感染症の専門ではありませんがノーベル賞受賞者の本庶佑特さんや山中伸弥さんが独自の見解を発信されました。多くの市民は、どの「専門家」の意見を信じればよいのかわからず、それぞれ支持する派閥に分かれてネット上で互いに攻撃を繰り返す、というような混乱が見られました。理性的な議論ならばよいのですが、一度「この説が正しい」と思い込んでしまうと人はなかなか意見を変えることができないもののようで、冷静な議論が罵り合いになることもしばしばでした(私自身もそのようなやりとりに巻き込まれたことがあります)。本書の第2章「人はなぜ攻撃的になるのか」では、社会心理学者の大渕憲一先生が、パンデミックだけでなくウクライナ戦争やナチス・ドイツの例も挙げて「それほどに、人間の心は柔らかく、そして脆いものです。その脆弱さが利己心を誘発して、残虐さを発揮させます」と述べています。
このようなことから、いわゆる「専門家」に対する多くの批判があったことは確かだと思います。しかし、専門家とは何でしょうか。本書の80ページで、科学技術社会論の野家先生は「専門家とは特殊な素人に過ぎない」と述べています。私たちは、たとえある分野の専門であったとしても、それ以外のほとんどすべての領域において素人なのです。むしろ、専門家であればあるほど、確証バイアスにとらえられやすい、ということが知られています(私のブログ功績主義の功罪でも触れました)。本書では「専門家対社会」という2項対立の構図がしばしば現れます。しかし私たちは、専門家が専門家である以前に1人の人間であることを忘れてはなりません。西浦先生は、科学者としての一線を越えることを承知しながら、それでも現在の危機に対して1人の人間としてやらねばならないことをやったのだと、私は思います。
社会を構成する一員である私たちには、特定の専門家の意見を鵜呑みにすることなく、多様な専門家の意見を聞き、総合的に判断するリテラシーが、要請されていると思うのです。
本当に「迷走」したのか
COVID-19の3年半あまりを振り返って、多くの意見があり、国民の意見が割れ、方針が2転3転したのは確かだと思いますし、意思決定の透明性が十分に担保されていない、ITがうまく活用できていない、など問題は多々あったのだと思います。ただ、COVID-19に関わった人たちのことを考えると、きっとその時点・その時点で、限られた情報と時間の中で、最善と思われる判断をしてきたのだろうと思います。
私自身もCOVID-19に関するいくつかのデータ分析をしてみて強く感じたのは、誰も未来のことはわからない、ということです。英国の当時のジョンソン首相は初め、これは集団免疫を獲得することで収束するのだ、と述べていましたが、急速な感染拡大を見てロックダウンをせざるを得なくなっています。中国の封じ込め政策や、シンガポール・韓国などの大規模PCR検査などは初めのうち成功例として取り上げられていましたが、後には見直されました。誰も未来のことなどわからないのです。
後知恵ではいろいろなことが言えます。でも、その場その場で得られる限りの情報と、社会の要請から、最善と思われる手を柔軟に打ってきたことが、迷走に見えただけではないでしょうか。不確実性の高い問題に対して、新たな情報が得られた時点で柔軟に方針を変えていくやり方は、ITの世界ではアジャイル開発という考え方で知られています。コロナ対策が迷走に見えるのはもしかしたら、このアジャイル的な意思決定を行った結果ではないでしょうか。
知の統合は可能か
本書では、「私たちは皆それぞれの立場からこの3年にわたり無数の対話を重ねてきたにも関わらず、何か根本のところで互いに噛み合わず、いまも社会は迷走を続けているように思える」(いずれもp484)と述べています。専門家の知を統合すれば、より正しい対応ができたはずなのではないか、と。しかしその議論は、「聖人君子のような専門家が集まって合意を作り、意思決定する世界」を、著者たちが夢見ているように私には感じられます。いくら優れた人を集めても、不確実性の高い問題に関して、正しい意思決定ができるとは限りません。
この本の著者は知の統合を実現するために、「多くの人は総合知の一員となる。一部の優れた人材は全体知を発揮して的確に状況を分析し提言する」(p556-557)ような世界を提案しています。しかしこのような考え方には、一部のエリートに統合を任せる、という意味で危険も感じます。
一方で私は、人類文明そのものが統合化された知といってよいのではないかと思います。極めて複雑な社会をまがりなりにも運営している。これはまさに知の統合ではないでしょうか。そして、時として社会が迷走しているように見えるのは、人々が「どのような未来を欲するか」について終わりのない対話を続けているからなのではないでしょうか。
決めつけてはならないとき・決めなければならないとき
多様な意見があるとき、学術に携わる人々は批判的検証を通して合意に至る、という「学術のプロトコル」を利用して知識を統合してきました[3]。ここで大切なのは、どんなに自分の意見が正しいと思っても、それを決めつけてはならない、ということです。自分が間違っているかもしれない、という可能性を常に意識しなければなりません。批判的な意見をじっくりと聞き、証拠を積み上げて、その時点での最善の合意にたどり着きます。私たち人類文明の知識体系は、そのように構築されてきました。
一方で、不完全な情報と限られた時間の中で、何かを決めなければならないときもあります。スタートアップ企業で、あと3ヶ月で資金ショートが明確なとき、ピボットするのか、資金調達して今のビジネスモデルの成功に賭けるか、正解がない中で決めなければなりません。決めないことが一番のリスクです。しかし、意思決定には当然間違いもあり得ます。どのような意思決定も完璧ではなく、事後になって「こうするべきだった」のような批判はいくらでも出てきます。イチかバチかにかけて、成功すれば称賛されるし、失敗すれば批判されます。でも、それは結果論にすぎません。
ここで大切なのは、意思決定が結果的に正しかったかどうか、ではなく、その意思決定プロセスの透明性、すなわち、誰が、何を目指して、どのようなリスクを予見しながら行ったか、を明確にすることです。これを私はアカウンタビリティと呼びたいと思います。結果的にうまく行かなかったら、当然責任を取らねばなりません。しかし、失敗したとしても勇気を持って意思決定したした人には、私たちはそれなりの敬意を払うべきだと強く思います。
専門家として、決めつけてはならないとき、決めなければならないときを見極めるのは本当に難しいことです。私たちはその違いを正しく理解して、適切な議論をしていかねばならないのだと思います。
参考文献
瀬名秀明ほか、知の統合は可能か~パンデミックに突きつけられた問い~、時事通信社、2023。
瀬名秀明、インフルエンザ21世紀、
丸山宏、アカデミアと社会~2項対立を越えて~、一橋ビジネスレビュー、Vol.69、2021。