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村上春樹 印象論

読書は好きなので本屋に行くのは楽しみの一つ。その本屋で時々目につくのが村上春樹論の本が並んでいることだ。で、気になってはいたがついにFacebookで大学の一般公開講義で村上春樹論があるとの広告を目にして「論」とはおこがましいので「印象論」程度で書く気になった。著作を全て読破していないこともあり特に思い入れを持って論ずるつもりではないのだが。

「村上春樹」との最初の出会いは学生時代だった。未だに読んでいないが「風の歌を聴け」を大森一樹監督が映画化したことを知った際だろうか。大森一樹映画監督は高校の先輩でそのつながりで知った。阪神間の出身であること、神戸を舞台にした短編小説を書いていることで親しみを感じていくつか読んだ。「ノルウェイの森」は初めて読み始めた際に少し混乱した。あれ、これ既に読んだやんと思ったのだ。読了して後書きか何かで知ったのだが既に読んでいた短篇小説をそのままベースにして続きを書いて長編に仕立てたものだった。この小説は神戸が舞台でもありある種の馴染みを感じた。だいぶ経ってから映画化されたが松山ケンイチ演ずるワタナベの通学する学校の教室のロケが自分の母校でされたるとは想像もしなかったが。

文体は正直好きではない。嫌いとまではいかないが馴染めないと言ったらいいのだろうか。例えば、「そうかもしれないしそうではないかもしれない。でも、そんなことどうでもいいことなのだ。」といった文体が印象的だ。(今では家の本棚に村上春樹の本はないので読み返して書いているわけではないためあくまで印象としてこんな書き方だったよな、という記憶で書いている。)もし自分が編集者ならこの箇所は全て削除するだろう。また、文章をレ点で強調したり太字で強調した箇所がある。多分、編集者ではなく作家本人の意向だと思うが、小説の中である特定の部分を著者自らフォーマットを換えて強調するのは何か違和感を覚える。そんなの読者に任せるものだというのが自分の考え。
また、描く主人公は何となく共通するものがある。「やれやれ」とつぶやきながらため息をつく。流されるままに流れる意志のない存在にも見えるのだ。自分の居る世界になじめない。この「なじめない」というのも分からない感覚でしっくりこない。加えて自分はビールが好きではない。ビールを飲むシーンを小説にこれほど描く作家を知らない。
好きではないが読んでいる間は楽しい。小説ではそのレトリックが何を意味するのか、何を象徴するのか、到底分からない。なので読んでいる間は楽しく読むのだが読了後はあまり何かを残してはくれない。
そんな中で好きな本を選ぶとすれば小説ではなくエッセイになるのだろうか。「遠い太鼓」を躊躇なく選ぶ。エッセイでもあり南欧の旅行記でもあるのだがモノの見方が面白くその表現が絶妙で一気に読んだ。一連の作品の中でもう一度読む、再読するとしたら「遠い太鼓」にする。


あまり好きな文体ではないとは思っていたが最近はどこか以前とは違いを感じる。いつからそうなったかは分からない。それはともかく海外に出て日本の作家はというとその知名度は抜群だろう。ブラジルである人がこちらが日本人と知ると村上春樹の本はよく読んでいると親しみを込めて話してきた。特に好きな小説があるという。「ほら、やたらと長い題名の小説があるでしょう!?」と言ってきたので「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」だとすぐ分かった。南半球で日本人の作家の話を現地の人とするとは夢にも思わなかったので印象に残る経験だった。

翻訳家としての「村上春樹」についてはよく分からない。「走る」作家という面から言えば作家、ライターというのは確かに体力が要るのだろうと思う。日本国内の文壇からは無視されてきたと聞くがムベなるかな。日本語の小説なのだが何かアメリカナイズされた匂いがして日本の小説ではない気がするのだ。アメリカに恋い焦がれて目指すといったことではなく最初から自然としかも苦もなくアメリカナイズされたとでも言ったらよいのだろうか。そういった側面を強調するならば日本の文壇から無視されたというより作家本人が文壇を意識することなく(日本にいながら日本にはない)独自の道を歩んで来たと言えるのかも知れない。

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