生きるということ
今日は亡くなった教授の告別式に参列した。私の短い人生において、記憶に残る最初の告別式となった。初めての儀式に一人で参加したため戸惑った部分もあるが、最後まで出席して本当に良かったと思っている。改めて生きているということの貴重さを心の底から感じたからである。
人は皆いずれ死んでしまう。それは当たり前のことで、みんなわかっていることなのに、忙しい日々を生きる我々はそのことを忘れ、永遠に生きることができるかのように振る舞ってしまう。それは人の一生が死を身近に感じるほど短くないことや、現代社会の発展により日々の出来事が死と全く無関係にあるからであろう。
私も永遠に時間があると錯覚して日々を過ごしていた人の一人である。
だが、初めて告別式というものに参列し、授業を受けたこともある教授が亡くなったということを式に参加することで改めて実感し、自分が死んだ時や家族友人恋人などが死んだ時のことを鮮明にイメージすることができた。そして心に湧いてくるものは生きているということがどんなに素晴らしいことかということである。
死んだ人は動かない。喋らない。世の中に働きかけることも、自分でない何かと関わることもできない。死んだら最後、肉体はただの物へと成り下がり、世界に干渉する能力を失う。
しかし生きている人は世の中に働きかけることができる。意思疎通を図ることができる。未来を変えていくことができる。これはとてつもないことだ!新しいものを生み出し、日々環境を変化させて世界を形作っている。生きていることで私という自由意志は無限の可能性を持つことができて、頭の中ではさらに無限に広い世界の中を飛び回ることができる!
こんなに素晴らしい能力を持っていてどうしてじっとしていられるだろうか!日々を大切にせよ、などという言葉は非常にありきたりだが、それを真に大切だと思って生きている人間はどれほどいるだろうか。
かのスティーブン・ホーキングは最後の著書でこう語っている。
私が生まれる前からこの世界は続いてきており、そして私が死んでから生きている時間とは比べ物にならないほど長く世界は続いていく。この短い人生の中で私はただ日々を消化していくように生きてはならない。どんなに苦しいことがあろうとも、どれだけ辛く、疲れて動けそうにない時が来ようとも。そう、強く思った。
短期的には休憩も必要だ。当然生物には休む時間がなくてはむしろ早死にして本末転倒になる。だが、長期的には何かを成し遂げるつもりで常に生きていたい。明日死ぬかもしれないというのは考えすぎだが、1ヶ月後、半年後、一年後に死ぬとして、今自分は何をしたいのか、何を為すべきなのかを考えこの生きている時間を存分に活かして全力で活動していきたい。
人は死を実感するまで生への執着を持たない。生というのは死があって初めて定義されるものだからだ。生きることのいかに貴重かを真に理解して時間を大事に過ごしている人は多くないだろうが、それを意識しながら生活することで他の人とは大きな差を生むことができるのではないだろうか。
最後にもう一つ、ホーキング博士の言葉をここに記して終わりにする。私が最も好きで、心に響いた言葉である。