桶谷秀昭「昭和精神史」一面の真実ではあるが、全面の真実ではない

日本人は不気味なくらいおとなしかった。はじめマッカーサーらは日本人は猫をかぶっていると思い、いまに牙をむき出すのではないかと警戒したが、それが杞憂であると思い始めた。
後年マッカーサーは誇らしげに回想している。「日本国民は、私を征服者ではなく、保護者とみなしはじめたのである。」「日本が鎖国状態で育てた古い慣習は、次々に、占領軍兵士の示すお手本にとってかわられ、日本人の心の中には、この兵士たちを賛美する気持が芽生えてきた。」「日本は20世紀文明の国とはいうものの、実態は西欧諸国がすでに4世紀も前に脱ぎ捨てた封建社会に近いものであった。」(『マッカーサー回想記』津島一夫訳)

日本の近世と近代の歴史にたいする驚くべき無知が無邪気が語られているのに、微笑を誘われる。日本が西欧400年以前に封建社会であったなら、天皇が大元帥として軍服を着ることなどなかったであろう。国民皆兵による総力戦の思想など発想の萌芽としてもありえなかったであろう。

しかし日本人の多くが、占領期間の間にマッカーサーを「征服者でなく、保護者とみなし」たのは本当である。日本の古い習慣が占領軍兵士の猿真似にとってかわられたというのも本当である。だが、それは一面の真実ではあるが、全面の真実ではない。

たとえば、占領期間がおわってマッカーサーが帰国するとき、見送りの日本人群衆の中に一人の老婆が土下座して拝んだという。その老婆はかつての天皇に対するようにマッカーサーを神のごとき人と思って拝んだのであろうか。思うにこの老婆こそ「日本が鎖国状態で育てた古い慣習」に生きている日本人ではないのか。老婆はたとへ豚の餌用であれ飢えに苦しむ日本人に食糧を放出したマッカーサー最高司令官の恩義を忘れなかったのではないか。戦争の末期、招集されてゆく兵士を焼野原の路傍で合掌して見送った老婆と同じ心を持った老婆なのではないか。

明治のはじめ、日本に外人お雇い教師がやってきて、中には碌でもない者も交じっていたが、彼らが帰国するとき、わけへだてなく高価な贈物と多額の餞別を惜しまなかったのは、「鎖国状態で育てた古い慣習」と道徳に生きていた日本人の心によるものである。

「一つの国、ひとつの国民が終戦時の日本人ほど徹底的に屈服したことは、歴史上に前例をみない。日本人が経験したのは、単なる軍事的敗北や、武装兵力の壊滅や、産業基地の喪失以上のものであり、外国兵の銃剣に国土を占領されること以上のものですらあった。幾世紀もの間、不滅のものとして守られてきた日本的生き方に対する日本人の信念が、完全敗北の苦しみのうちに根こそぎくずれ去ったのである。」(『マッカーサー回想記』)

これもまた一面の真実に過ぎないと思う。あの8月15日の“茫然自失”の延長の上に占領軍と占領政策への「徹底的な屈服」が起こったのであろうか。「日本的生き方に対する日本人の信念」が根こそぎ崩れ去ったのだろうか。

何か別の存在への屈服が、“茫然自失”の瞬間に起った。その心の状態が、占領政策に対する無関心のあらわれに過ぎない。私にはそう思われる。


(つづく)


桶谷秀昭 「昭和精神史」

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