田川健三「キリスト教思想への招待」 その力の総合として
「能力に応じて働き、必要に応じて消費する社会」は、独裁国家からでは生れない。だいたい「共産主義」と訳された単語(コミュニズム)は、単語の意味は単に、「共同体たること」ないし「共同体」というだけの意味である。それぞれの自立した主体たる個々人が自ら進んで協力しあって、それぞれが能力に応じて働き、それぞれが必要に応じて消費する、ということだ。独裁国家とは正反対の極にある。
なんぞと書くと、だからお前は理想主義者だ、とかいった悪口を言う奴が出て来る。理想主義でなんで悪い。理想の方向に向かわないとしたら、世の中よくならないではないか、と言って切り返すことができるけれども、まあ、そういう人たちの言いたいのは、そんな理想だけを言っていても仕方がないので、では、そういう方向でどのようにして社会を組織するか、という具体論を言ってみろ、ということだろう。しかし、あわてなさんな。かつての「共産主義者」さんたちは、そう言って「理想主義」を排斥し、自分たちが道筋として描いた社会の組織化を推進すべく国家権力を手に入れようとなさった。いや、まあ、国家権力が手に入ったとして(そういうつけあがった指導者意識の連中の手に国家権力が握られないことを祈るが)、その人たちは、その組織化を、自分たちの政策として、国家権力を持って全国民に押し付けようとするだろう。間違ってはいけない。社会のすみずみまで、どこがどう働けばどうなる、ということをすべてよく知って、社会のすみずみまで正確に見通すことのできる能力なんぞ、人間にはない。この組織化好みの連中が間違っているのは、あたかも社会のすみずみまで見事に見通した組織化を自分たちのけちくさい能力で考えつくかと思い上っている点だ。どっちが抽象論だか、よく考えてみてくれ。
だから、本当に人と人とが支えあう社会は、すべての人々が、すべてとは言わないまでも、少なくとも大部分の人々が、そうしたいと願って、自らできる限りそのように生き、まわりの人もそのように生きられるように助け合う、そういう人々の力があらゆる場所で発揮されてはじめて、その力の総合として、人と人とが支え合う良い社会が生れてくる。なんなら、きざでよろしかったら、愛が表現する社会が、とでも言っておこうか。すべての人々のそういった自発的な力が十分に整って、それが何百年の伝統をつくっていったら、その上に立ってはじめて、国家も、それに応じて少しずつ組織化する政策を考えられるようになるだろう。
そんなのは、今の日本の現状を考えたら、日暮れて道遠しだ。と、ま、そりゃそうだよ。今までずっとさぼってきたんだから。しかし、遠かろうと、近かろうと、その道をたどるのが、人間が暖かく生きる方向だから、もし我々みんながその方向に努力したら、何百年か先の子孫たちは、もっと暖かい世の中を生きることができるようになってるだろうよ。もしも、それまで人類が生き延びたら、の話だけど。
田川健三 「キリスト教思想への招待」