田川健三「キリスト教思想への招待」 あとは夜昼、寝たり起きたりしている①

古代人が、心をふるわせて、一つ一つの収穫のたびに、この自然をたまわったことについて感謝していたことを、今、我々は思い出してみる必要があろう。彼らは、その自然を与えてくださった神様に感謝した。我々も、同様にその神に感謝しようではないか。神んなぞ存在しなくてもかまわないから。

こういう感謝を素直に表現していたのは、イエスという男である。かつてパレスチナの北部、いわゆるガリラヤ地方で生きていた、あのおそろしく鋭く、かついつもどことなく楽しい男である。どういうときに語ったかわからないが、たぶん、宗教問答をかけられて、神の国とは何か、とでもいった質問をされたときに口にしたのであろうか。

神の国は、大地に種をまく人みたいなものである。あとは夜昼、寝たり起きたりしている。しかしこの人自身が知らぬ間に、神は芽を出し、成長する。大地がおのずと実を結ぶのである。まず青草が、それから穂が、そして穂の中に豊かな穀物が、そして時がいたれば、彼は鎌を入れる。収穫が来たのだ。(マルコ4・26-29)

イエスはここで、「神の国」なる宗教理念について、宗教教義的な議論はまるでしようともしていない。後世の、現代にいたるまでの、神学者たちは、ここから何とかして「神の国」に関するドグマを、そしてキリスト教的な教条を引き出そうと、さまざまに屈折した「解釈」の試みを展開してきたけれども、お門違いもいいところである。神の国なんぞという有難いものがもしも本当にあるとするなら、農民の生活を見てみろ、大地に種をまいたら、あとは寝たり起きたりしているだけで、自分ではまったく何もせず、何でそうなるのかもよくわからないがままに、大地がおのずと収穫物をもたらしてくれるではないか。こんなに有難いことがあるか。こんな有難い恵みをいただいていながら、どうして、それ以上に神の国がどうのこうのと屁理屈をとなえたがるのだ。感謝して、寝てればいいではないか。

(つづく)


田川健三 「キリスト教思想への招待」

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