田川健三「キリスト教思想への招待」 宗教からの解放

それにしても、我々の社会、いまだにまったく、宗教どころの騒ぎではないではないか。相変わらず、うさんくさい宗教、疑似宗教、疑似疑似宗教が次々と出現し、それにたぶらかされる人が次々と大勢出て来る。実は、統計的には、今の日本人は、私は無宗教です、と思っている人が非常に多い。しかし、実際には、その人たちは宗教から足を洗うことなどできておらず、さまざまな宗教儀礼に適当につきあって、まさに日本的ななあなあ主義で、適当にあちこちつきあっておいでになる。単なるつきあい程度なら、ご自由に、としか言えないけれども、この種のものは単なるつきあいでは終らない。だから人々の心の中に、うさんくさい宗教、疑似宗教、新興宗教、新々宗教、新々々宗教、疑似疑似宗教、等々に対する免疫が形成されないのである。昨日まで、私は無宗教です、と言っていた人が、ある日、気がついてみると、とんでもない疑似宗教のとりこになっている。オウムだの、白装束だの、なんだかんだのというのは、別に、少数の例外的な人がとりつかれたわけではない。日常は、そんな迷信的な疑似宗教とはまったく無縁のように見え、ごく普通の生活を送っている人が、ある日突然、そういうものに組み込まれる。逆に言えば、いかにも、そういうものにたぶらかされそうな危うい人が、この社会に満ちあふれているのである。だから、次々とあの手のものが登場する。


いや、うさんくさいのは、その手の疑似新興宗教だけではないだろう。既成宗教は、既成宗教の名前で守られているだけであって、従って、ひどい暴力に走ったりはしないけれども、(ゆったりと構えていても、十分に儲かるのである)、その実態は、大差のないうさんくささで満ちているではないか。基本的な問題は、既成宗教教団が、なんとなく曖昧な人々に宗教心を訴えかけていながら、人々が満足できるような宗教心を提供できていないところにある。だから、なんとなく宗教心を求めつつ、しかも既成宗教教団の見えすいたうさんくささに満足できない人たちが、疑似宗教、疑似疑似宗教には本物があるのではないかとたぶらかされて、そちらに流れてしまうのである。もしも既成宗教団が宗教心を訴えるのであれば、人々が疑似宗教に流れたりはしない程度に十分に魅力のある宗教心を提供しないといけない。果してそんなことがおできになるかどうか、私は知らないが。しかし、もしもそれができないのであれば、本気になって宗教の克服に取り組んでごらんなさいな。キリスト教、浄土真宗に限らず、既成宗教の中には、出発点の根っこを探れば、宗教の克服を自分たちの出発点としているものはほかにもいくつもあるはずだ。いや、不幸にして、出発点以来そういう遺産を持っていなかったとしても、かまうことはない。過去を克服するのが、すぐれた道ではないか。

しかし、我々現代人は、古代のキリスト教や中世の親鸞教団の人たちとは違う課題に面している。さまざまな紆余曲折を経ながらも、ようやく我々は、人類はそろそろ宗教そのものから解放されようではないか、と言える段階にさしかかってきたのであるから。そして、まさにソ連邦の実例がよく示してくれているように、これは単に、宗教なんぞやめましょう、という話ではない。宗教は、単にうさんくさい迷信の集積というだけのものではない。いや、ここで屁理屈を言って、宗教信仰にはもっと深いものがあります、などとごまかしてはいけない。宗教信仰というのは、本質的にうさんくさいものである。けれども、宗教は同時に、この社会において、さまざまな良き部分を担ってきた。特に、あまり眼に見えない領域で良きものを担ってきた。つまり、この社会がこれまで宗教に担わせてきたさまざまな良きものを、もはや宗教に押し付けることなく、みずからの手で直接担うようになってはじめて、我々は、もう宗教なんていらない、と言える資格を手に入れる。それなしに、宗教なんて迷信だからやめなさい、などと言っても、無益な破壊になるだけだ。

それにしても、もうそろそろ、我々の社会も、宗教から解放される努力をはじめないといけない。そしてそれがまた、この現実社会そのものを、より良くつくっていく道でもある。まだ数百年ぐらいはかかるかしらん。


田川健三 「キリスト教思想への招待」

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