桶谷秀昭「昭和精神史戦後篇」 広田弘毅②
昭和23年11月12日、A級戦犯二十五被告に対する判決がウエッブ裁判長によつてよみあげられた。
荒木貞夫(終身刑)に始まり、土肥原賢二(死刑)、橋本欣五郎(終身刑)とつづき六番目に廣田弘毅の名が呼ばれた。
「被告廣田弘毅、被告が判決を受けた起訴上中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。」
廣田は耳を傾けるときの癖で瞑目し、うつむき加減にしてゐたが、“death by hanging”の“death”で目をひらいた。イヤホオンをはづして一礼してから、二階の傍聴席を振り仰いだ。二人の令嬢に軽い会釈と微笑を送ると、被告席中央の黒い扉の出入口から姿を消した。
同じA級戦犯で禁固七年の宣告を受けた重光葵は『続巣鴨日記』にその頃の廣田の姿を印象深く描いてゐる。
《絞首刑の云ひ渡しを受けた鉄人廣田は傍聴席にいた令嬢令息を蒼井で訣別の顔を合わせた。其の日十一月十二日の夕闇に市ヶ谷法廷の地獄坂を下つて行つためかくしの囚人バスを坂の下のもと陸軍省の入口で待ち合わせた娘たちがあつた。彼等は狂気の如くハンカチを振つたがバスの中からは何の応へもなくバスは暗闇の中を消えていつた。その写真が翌日の新聞に出て人々の心を強く打った。娘達の学校友達等は翌日から数寄屋橋のたもとに立つて、廣田助命嘆願の署名を集めつつある。
判決最終日の前日、即十一月十一日其の日の法廷を終えて我々のバスが市ヶ谷の地獄坂を下りて行ったときに、廣田の令息や二令嬢が正門の側に立ってハンケチを振つている姿をめかくし窓のすき間から見付けた廣田君は席から立ち上つて気も狂わんばかりに帽子を振ったのは、静かなる廣田君の平常を知る同囚者の眼に深い印象を残して、吾吾の間の話題に縷々上つた。》
この日から翌十二月二十三日午前零時二十分の処刑の時まで、廣田は常と変わらぬ平静な日々を送った。死の支度に類する行為、遺書や辞世の詩歌を書くことも一切しなかつた。ただ、令嬢、子息たちとの面会をたのしみにし、そのときも雑談に時を過し、遺言めいたことは一切口にしなかつた。そして、昭和二十一年五月十八日、極東軍事裁判がひらかれてから間もなく、廣田の心の負担を軽くしたい動機からであつたろう、自殺したすでにこの世にゐない夫人宛に手紙を書きつづけた。カタカナの電報のやうな手紙である。
一、アメリカノダイシンインハ、六ヒカラヒラカレ、ジヨウソヲシンギスルハヅナレバ、ソノケツカヲシルマデ、シヨケイハエンキサルルワケナラン/一、コノヒコウテンキ、ニツコウサシ、ヘヤモ、ホツトエアデアタタカク、キモチヨシ/一、モハヤナニモカクコトナシ、ママノメイフクヲイノル 十二ガツ七ヒ コウキ シズコドノ
(つづく)
桶谷秀昭 「昭和精神史戦後篇 東條英機と廣田弘毅(下)」