田川健三「キリスト教思想への招待」 葡萄畑の日雇労働者③
もちろん、実際の社会構造は複雑であるから、これをそのまま制度として実施するわけにはいかない。制度は、複雑な事情を考慮して、いろいろ複雑に作られる。しかし、どんなに良い制度であっても、基本にこの精神が通っていなければ、必ず人を抑圧するものとなる。なんですって、今日の仕事にあぶれた人も、今日の食いぶちを手にすることができたんですって?よかった、よかった、みんな安心して食べて、眠ることができる、と。このように「よかった、よかった」ということができる精神が、精神なんぞとややこしい単語は使うまい、そう思い、そう感じることができる心が、みんなの中にあれば、お互いに支えあって生きていくことができる。それが制度に生命を与える。
もう一度言うが、一世紀の昔にこれだけのことを言ってくれた人がいる、というのは、すごいことである。しかし、これは、昔むかしのお話で、博物館の一室に保存してある、というものではない。これを言ったのは、イエスである。イエスの話は、以後のキリスト教社会において、くり返し語り継がれ、くり返し人々の心にしみとおっていった。それが、キリスト教西洋のさまざまな制度を生み出し、支える要因となったのである。
わたしにとって非常にショックな事柄があった。長年にわたるヨーロッパ、アフリカでの生活を終えて、日本に帰って来てから、私はある小さい女子大学の教師になった。学生にクリスチャンはほぼまったくいない。その学生たちに、私は毎年つとめて授業でイエスや新約聖書の話をするようにしていた。この本に記したことの多くは、その授業で語ったことでもある。特に、この日雇労働者の譬え話は、必ず紹介した。ある年、この譬え話を紹介し、上で述べた、また以下にも述べるような解説も加えた。そこまでは毎年やっていることである。しかし、一度学生たちの率直な感想を聞いてみたくて、ある学期の終わりの試験の時に、最後に時間が余ったら、これは試験とは関係なく、採点にも関係ありませんから、率直に、この譬え話についての感想を書いてください、と頼んだ。このときに、要望に加えて率直に意見を書いてくれた大部分の学生に私は感謝している。普通は、そうは言われても、なかなか書く気にはなれないものだ。それをほとんどの学生が書いてくれた。
しかし、その点では感謝するけれども、その中身に私はショックを受けた。全体のおよそ三分の二(三分の一ではない!)の学生が、こういう意見は間違っている、と書いていたのである。働かなかった労働者にも賃金を与えるなんて、間違っている。それじゃ、働いた労働者が損をしてしまうではないか。そんなのは不公平だ。働かなかった労働者は、自分が悪いんだから賃金をもらう資格なんぞない。等々、等々。
確かに、これは、一年生の授業である。もしもこれが四年生の授業であったら、すでに就職が差別されるのを経験している。働く機会が得られないのはご本人の責任とはいえない、ぐらいのことは、こっちが何も言わなくても、十分に肝に銘じている。今の日本社会、政府は「男女共同参画社会」なんぞという看板だけはかけてくれているが、この看板はほとんど何もしないことの言い訳のための看板であって、現実はなかなか変らない。世界中どこに行っても本質は似たようなものだが、しかし、労働の場における女性差別は、日本では世界でも群を抜いてはなはだしい。
などなど、いろいろあるだろうけれども、しかし、いわばまだ素直な若い人たちである。小さい大学の数十人の授業だから、それが日本全体の意識をどの程度代表しているかもわからない。しかし、彼女たちはほどほどにまずまずの知性もあり、みなさん人柄はなかなか良い人たちである。しかし、今回この本に書いている事の大部分は、これほど詳しくはないにせよ、その時の授業ですでに話した後である。この人たちの「素直」な感性がこういうことであったとは。
田川健三 「キリスト教思想への招待」