宗教の事件 57 西尾幹二「現代について」
どうやら元東大教授の憲法学者と言うのは、この程度の粗雑な頭でやっていける気楽な仕事であるらしい。法の精神のイロハを知らずに、この人が法をもてあそんで世の中に通用するのをみると、背筋が寒くなる思いがする。
奥平氏は『朝日新聞』論壇(同年十月十日)に、右の観点のほかに、(イ)破防法が治安維持法のように他の団体に拡大適用される、(ロ)オウムは再犯の明らかなおそれがもうないので適用の必要はない。(ハ)破防法は宗教としてのオウム真理今日の信仰の自由を脅かす、の三点を反対理由として挙げているが、これらが普通の常識の見地、一般市民の見地から見て、まともな反対理由にはたしてなり得るであろうか。私は紙幅が許せばいくらでも詳しく反論はするが、無益なことは止めたい。ただ次のようにひとことでいえば、常識のある読者にはすぐ分るはずだ。(イ)は、“単独講和は日本の軍国主義化につながる”、“日米安保に賛成すると戦争になる”、と言いつづけた例の後向きのワンパターンの論法と同じで、読者はまたかと苦笑するだけだろう。(ロ)に対しては次のように言いたい。オウムにもし再犯のおそれがないなら、逃走中の重要実行犯は堂々と出て来て自首すればよいのであって、彼らの雲隠れを助けている勢力が白日の下にさらされ、解明されない限り、破防法適用の必要はなくならない。(ハ)信仰の自由は無差別殺人の自由と同じではない。
以上反論はまことに簡単だが、簡単ではないのはマスコミに撒き散らされた奥平氏らの言葉、それらを持ち上げ尊重するマスコミの姿勢全体が醸し出すムード的心理的効果である。
まやかしの論理をひとつひとつ理性的に反駁するのはたやすい。しかし世には理性の力では抑え切れないものがある。
われわれにとり今一番大切な問題は、カルト教団の危険を社会から永久に取り除くことである。それがすべての市民の願っている常識的願望であると私は信じる。それなのに、マスコミはテロの加害者の「人権」をおもんばかって、被害者の苦悩、あるいは今後新たな被害者の発生する可能性への恐怖に、じゅうぶんに配慮しない無責任な言葉に、権利を与えたがっているかにみえる。そのため、私を含む一般人はいまある種の劣等感に陥っている。
すなわち、破防法の適用は本当はやってはいけないことだが、今回だけは例外で仕方がないのかな、と。目下そういう「確信の喪失」に襲われている。マスコミ関係者も歯にものがはさまった言い方で、自身のなさを露にする。それもこれも、天下の悪法を振りかざした権力側に自分が味方していると頭から信じ込まされている。漠たる後めたさの結果である。
つまり国民は一方ではテロリストに腸の煮えくり返る思いをしながらも、憲法学者や弁護士たちの強弁にも動かされ、当局の措置に確信を持てぬまま、一種の「知的不安」を引き摺った状態で、松本智津夫(麻原彰晃)による破防法弁明の日を迎えたといってよいであろう。
国民がテロリストの裁きを前に率直に憤激を表すことが許されず、なにか自分の方で罪を犯しているような意識にさえとらわれてしまうというのは、どうあっても健全ではない。異常事態である。
法律の素人である私は、ここではたと当惑し、先へ進めないというのがこれまでの通例だが、専門家が曲学阿世の徒ばかりで、頼りにならない以上、自分で研究するしか仕方がないであろう。で、私は手探りの研究を開始した。破防法ははたして人もいうあぶない法律なのだろうか。「結社の自由」という憲法の規定があることは百も知っているが、民主主義的秩序を破壊しようとする組織や団体に対し、先進西欧諸国はどうやって自分を守っているのか。たとえば極右団体に苦しむドイツは破防法のような法律を持っているのかどうか。持っているとしたらどのように行使して来たのか、あるいは行使できないできたのか、などなどの初歩的知識を知りたいという、素人なりの切なる欲求が私のなかに激しく燃えあがった。
私はいま目の前に「破壊活動防止法」(昭27)いわゆる「破防法」と、ドイツの「結社法」(1964、昭39)の全文を手にしている。またそれらに対するいくつかの研究書をも、手に入れて読んでみた。私は勿論どこまでも素人である。だが現代は専門家が教えるべき肝心要のまともな知識をきちんと教えてくれない時代なのだから……ことに諸外国の団体規制法と破防法との比較について……、私は自分で必死に問題を探求する以外にないではないか。
(つづく)
西尾幹二 「現代について」