辺見庸 臨終の床にあった友が

臨終の床にあった友が、つかのま身じろぐというか、幽(かす)かな気のようなものを放ち、なにか言葉を発した。ごく小さな嗄(しゃが)れ声で「ちいん・・・・・・だな」と呟いた、と私は思った。あるいはそれは「ちおん・・・・・・だな」と語られたのかもしれないのだが、聞きなおすにもいかず、不得要領ながらしきりに頷くほかなかったのである。以来、「ちいん(ちおん)・・・・・・だな」は、躰に刺青のように彫られたままであり、私はときおりその刺青をそろりそろり指でなぞってはくりかえし語感を探っている。意味は、じつは、いまだにわからない。わからなくてもべつに不都合ではない。わからなくても「ちいん(ちおん)・・・・・・だな」という最期の言葉を私は好いており、愛しい記憶として反芻している。

「ちいん(ちおん)」は、ひょっとすると「知音」か「知恩」だったかもしれない。いや、はっきりした意味を指示しなかった可能性もあるだろう。だが、性急に断じる必要がどこにあるだろう。友は疑いもなく、語ろうとしてなお語りえないことを最期に発信しようとしたのであり、それが「ちいん(ちおん)・・・・・・だな」だった。遺された言葉をいつまでもいぶかしみながら頬ずりしつづければよい。それがよい。それがよい。私の心底には、逝く者のそれにかぎらず、言葉の奥行きを想像したり斟酌したりできなくなった今の世への不信もある。何事か具体的に明示しない言葉を言葉とは認めない世を怖いとも感じる。

多弁で早口、立て板に水を流すようにしゃべくる者がいまは幅をきかせている。訥弁で寡黙、よく羞じらう者などおよそ流行らない。そのような社会は私は好かない。という話をあるキリスト者にしたとき、彼は北欧の学者トーレイツ・ボーマンの『ヘブライ人とギリシャ人の思惟』(1953年)などを引くかたちで、ヘブライ語における「言葉」(ダーバールDABAR)の語源には「後ろにあって、前に追いやる。背後にあるものを前に駆り立てる」という意味があるということを紹介してくれた。そこで「後ろにある、背後にある」と想定されているものとは人間の内面なのだという。聴いていたらあるイメージがわき心が震えた。内奥のうす暗がりに人の思いは当初、徒雲のようにぼんやりと浮かび、それが時間をかけて醗酵、生成、吟味、修正され、最後的になんらかの音として「前に駆り立てられて」でてくる。それが言葉ではないか。だとすれば、大切なことほど訥弁といいよどみ、いいづまりされるはずではないのか。

もしもキリストが訥弁であったりパウロが言語障害者であったら、と私は幻想する。それでも人々は彼らの話を聴きとろうと努めたであろうか。だとしたら、なんだかうれしい。横板に雨垂れのパウロの言葉に、あれこれ想像の力で語の足らざるを補いながら、耳傾ける人々。そうだったならば興味深い。饒舌で流暢、巧言に長けた者など、宗教であれ政治であれ文芸であれ、どうも信じる気になれない。言葉に「背後にあるものを前に駆り立てる」という原意があったとすれば、内奥の薄命下にあるおぼろななにかが深くかかわるものであり、それを心から畏れるのなら、ものごとはへらへらとよどみなく表現されるべきではない。いまを支配する多弁で早口、声高の者たちは、しかし「背後にあるもの」、おぼろなるもの、未知なるもの、視えないものをなんら畏れない。それはとりもなおさず、言葉を畏れないということであろう。言葉を畏れぬ者らに用いられるコトバは、この世の存在と非在をめぐる表現の玄奥をみとめず、市場に流通して際限なく増殖するだけの記号か資本のようなものになっているかもしれない。

冒頭の「ちいん(ちおん)・・・・・・だな」だが、最近はっと思いいたった。あれは故人独特のジョークで「チーン・・・・・・だな」と、葬式の鐘の音でも模したのではないか。と。どうもわからない。わからないまま、いずれ私が今生最期の言葉を洩らすときがくる。


辺見庸 「前に駆り立てるもの」

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