宗教の事件 05 辺見庸「不安の世紀から」
●異端排除へ向かう悪の象徴探し
意識産業の機能とか本質というものは主観的な善意によっては変えられないのではないか、ということをいろいろ申し上げましたが、予見される将来においてはむしろ、もっともっと高じていくだろうと思います。たとえば、われわれもつい数年前までは、冷戦の構造というもののなかに生きてきたわけですが、それが粉みじんに崩壊し破綻した現在、世界で五十以上の地域紛争が起きています。いまにしてみれば、冷戦の構造というのは、われわれが本能的に予感していた世界の惨状を、未熟に阻止するために講じられた次善の策だったのではないかと思えるくらい見事なシステムのようにも思われます。その冷戦構造の崩壊のなかで、米国=悪、ソ連=善、ないしはその逆ということで大枠の価値観を重ねていくやり方も完膚なきまで破綻しました。そして、その後の世界は、経済の目的なき繁栄ないし目的なき発展というものをしているような気がします。意識産業は、こうした思想の混迷、精神の貧困を肥やしにして肥大化しつつあります。資本の本源的蓄積がとうの昔に終わり、現在は意識の徹底的収奪の段階にあるともいえましょう。換言すればそれは、精神が物質的な豊かさにどんどん負けていく過程であり、日本の高度成長以降の精神史がその典型です。
冷戦時代の象徴のシステムが粉々に砕け散ったいまの世界でなにを必要とするかというと、非常に誠実に悩んでいる人にとっては「善」ではないでしょうか。絶対的な善というものを探すのだと思います。あるいは解脱。当初はオウムの信者たちもそうだったのではないかと思います。しかし、それは社会のなかでは少数派であって、メディアと市民社会が無意識に探すのは一般に、絶対的「悪」の方ではないでしょうか。主敵が見当たらず、悪がないからこそ探すわけです。その絶対悪の役柄が、麻原彰晃という人にあたえられたのではないかと思います。メディアも含めた「極刑に処せ」の大合唱がもうすでに始まっているように思えてしかたありません。もちろん麻原的なる人格、麻原的なる人間性といえども、この社会が生み出したものだとわたしは思っています。
これになぞらえる物語で、いちばん合致するのはなにかと私はずっと考えていました。そうすると、いまのメディア状況、とりわけテレビの状況というのは非常に中世的で、十三世紀のヨーロッパの状況にどこか似ている気がするのです。たとえば、ドイツのハーメルンで1284年6月26日に130人の子供たちが突然行方不明になってしまう事件が起こります。これは歴史的な事実です。そしてグリム兄弟の伝説集やゲーテの『ファウスト』やらをとおして、この事件はいろいろな形で語り継がれていきます。日本には阿部謹也さんの「ハーメルンの笛吹き男……伝説とその世界」(ちくま文庫)という名著があり、これは非常に示唆的です。
なぜ130人もの子供たちが突然いなくなったのかということについてはさまざまな説があって、旅芸人の笛吹き男による復讐説から、ヨハネ祭りという大変なお祭りが当時あって、踊り狂って崖から落ちた事故死ではないかという説まで阿部さんはいろいろと調べて検証されています。ただし、この本のすばらしさは謎解きではありませんで、結局は世の中が、13世紀のドイツが、不可解な事件を笛吹き男のせいにしてしまったのはなぜか、というふうに問題を立てるわけです。そして当時、笛吹き男=旅芸人というのは、キリスト教徒はまったく違う異端の宗教を信じていたこと。したがって、教会とかコミュニティから差別された賤民であって、悪の象徴たりえたこと。そのために、あらゆる不幸、どうしても解釈のつかない事件の責任をすべて彼らに転嫁していったこと、などが明らかにされています。これをそのままオウムに二重写しすることはできないと思いますが、いまのマスメディアの判断というのは、中世的な悪と善の振り分けみたいなものからあまり深まっていないのではないかと思うのです。
(つづく)
辺見庸 「不安の世紀から」(角川文庫)