辺見庸「人ってどうしてばかたかい塔をたてたがるんでしょうかね

「人ってどうしてばかたかい塔をたてたがるんでしょうかね・・・・・・」。この人の話題はいつもだしぬけだ。「たかい塔を見ると、人はみんなのぼりたがるんですよね。わたしもそう。なんですかね・・・・・・」。私は返事をせず、なんとなくかれのつむじに視線をおとしている。

「エッフェル塔、東京タワー、9.11でやられたツイン・タワー、ワシントン記念塔、平壌の主体思想の塔、台北101、ドバイの塔・・・・・・塔だらけですよね。わたしもね台北101見にいきましたよ・・・・・・」。のぼった塔の数を、私もかぞえてみる。とてもかぞえきれない。マッサージ師が問うこともなく問うている。「人って見あげたり見おろしたりが好きなんですかね・・・・・・」。指は湯のなかでアキレス腱をつまんでいる。弦楽器でもはじくように。人とは、たかみから見くだしたり、たかみにひれふしたりしたい生きものなのだろうか。かれがまたつぶやいている。「クウェートには地上1キロの超高層ビルがたてられるらしいし、ツイン・タワーの跡地にはなんとかいう、前よりもっと高いビルがたつっていうでしょう。いろいろお題目ならべて・・・・・・」。フリーダム・タワーだ。「なんかねえ・・・・・・へんですよね。低くちゃあどうしていけないんですかね・・・・・・」

はっとする。低くてはいけないのか、というつぶやきを、私はなぜか<低くあれ・・・・・・>と聞いた。その身、低くあれ、と。うずくまったマッサージ師の大きな耳を見ながら、この人はいったいだれなのだろう、といつものようにいぶかる。だがしかし、あなたはどなた様か、と問う手前で、からだが綿のようにほぐされて、とう意思をなくしてしまう。彼の声には、ごく淡いにおいがひそんでいる。ポケットにラベンダーのサシェ(におい袋)でもしのばせているのだろう。警戒心はこれでさらにほどかれる。いつのまにか私はベッドにうつぶせている。足がうそみたいにかるくなっている。マッサージ師は馬乗りになって肩をさすっている。「このご時世に、なんで低くちゃあ、だめなんですかねえ……あっ、痛くないですかあ……」

うつぶせた私は、まなうらいっぱいにブリューゲルの絵「バベルの塔」をうかべて、まどろんでいる。塔はあまりにも巨大で、ゆがみ、えぐれ、おぞましく、不安定で、グロテスクだ。まちがいなく、これこそ、人というものの倨傲の幻影である。それは、大建設が大破壊を、進歩がとほうもなく退歩を、ひとにぎりの富者が億万の貧者を、自由が一方の束縛をもたらす人の世の、解こうとして一向に解きあかしえていないアポリア(矛盾)でもある。それでも人びとは性懲りなく、いまも「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(「創世記」11-4)とのぞみ、富と権力を集めようとする。結果、出来(しゅったい)しているのが、このたびの世界恐慌ではないか・・・・・・といえば附会になりかねない。けれど、危機はさほどに底知れず、塔の寓意はさほどに深い。

マッサージ師が帰った。(低くあれ・・・・・・)のこたえをのこして。次回は、主がわざと混乱させたという「言葉」について聞きたいが、かれはよもや神であるまいし、私はまたまどろむにちがいない。


辺見庸 「人はなぜ塔をたてるのか」 2008年10月

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