田川健三「キリスト教思想への招待」 あとは夜昼、寝たり起きたりしている②
イエスがここで、「あとは寝たり起きたりしている」と言っているのは、私の大好きな言葉の一つである。もちろん古代人とて、土の中に種をまくだけで、あとはまったく何もしないで収穫物が得られたわけではない。農民は、ちゃんと土地を耕し、肥料も入れ、それから種をまく(ないし、彼らの農業では、先に種をまいて、それから耕して、種を土の中にうまく埋め込む方法をとっていた、という説もある)。土地を耕すのは、大変な労働である。加えて、いかに雨の少ないパレスチナとて、雑草鶏の仕事もあっただろうし、野獣に食われるのを避けるために手だてを講じる必要もあっただろう。いつの時代も、農業労働は楽ではない。
あるいは、イエスは大工だから、農作業のきびしさを知らなかったか。まさか。古代の、それも小さな街、ほとんど村と言っていいくらいの町で、大工と言っても、我々の感覚ならば家具・建具の職人として働いていた。常にあちこちの農家に出入りしていただろうし、農民の友人も多かっただろう。イエスの譬え話に、農業にかかわる話が非常に多い。
イエスが語っているのは、ことの最も本質の部分である。人間がどんなに多く農作業をやったとて、種から芽が出る、その不可思議な自然の働きそのものを作り出すことはできない。実際、寝たり起きたりしている間に、いつの間にか、芽が出て来る。その芽を、我々がひっぱったとて、青草に成長してくれるわけではない。それは我々には作れない。そして、まことに不思議なことに、青草の先に穂が生じる。日がたつと、穂の中に、ちゃんと穀物が実っている。この、自然が生み出す働きがことの本質であって、人間は、それを自分が手に入れ易くするために働いているにすぎない。
イエスはまた、二世紀の護教のように、こういう有難い自然を造って下さった神様を信じなさい、とさえ言わなかった。まわりの、宗教がかったパリサイ派などの人々が、神の国、神の国と言い立てて議論をしたがるのに対して、あんたら、そうおっしゃるけれども、神の国なんぞと言ってあんたらの頭の中の観念を継いだりはいだりして組み立てわせてみてもしょうがないだろう。我々が生きている世界を、我々が生きさせていただいている世界を、毎日毎日あらゆる仕方でお世話になっていながら、あんたらは議論の中では忘れてしまっている世界を見てみろよ、種をまいたら、あとは寝たり起きたりしているだけで、こんな有難い穀物をいただいているんだぜ、どうだ、有難いだろ・・・・・・。
田川健三 「キリスト教思想への招待」