宗教の事件 58 西尾幹二「現代について」
二
破防法が何らかの「破壊団体の規制」を問題にしているのは第二章、わけてもその中の第五条と第七条である。両方に共通する要点は、大略次の三つにまとめられる。規制の対象となる団体が、(一)政治的な目的を持った団体であること(個人でないこと)、(二)暴力主義的破壊活動をすでに行ったこと、(三)将来も再犯の明らかなおそれがあること、の三要件を満たしているかどうかである。
これに対し松本智津夫が5月15日に、教団弁護側の質問に答える形で自らの主張を述べ、長時間弁明を展開したことはなお記憶に新しい。それがどことなく巧みに論点をはぐらかすことに成功し、ぼろを出さない弁明であったという印象を与えているのはなぜだろうか。
彼は(一)と(三)には曲りなりにも反論したが、(二)に対しては意図的に口をとざしたからだ。松本サリン事件をうやったかやらないか、などのいちばん肝心な過去の事実には、宗教問答めいたヴェールをかぶせた。刑事裁判の進行中ゆえに事実関係には深く踏みこない、というのが表向きの理由で、弁護側の戦術といっていい。しかし国民が一番聴きたがっているのは(二)に対する彼の積極的弁明であった。他のことは言い逃れがいくらでも出来る。水掛け論にもなりかねない。実際彼は(一)と(三)に対しては巧妙な遁辞を連発し、表向き弁明は見事に成果を上げたかに見える。
そもそも今度のこの弁明手続きに置いては、公安調査側には質問権がない。弁明はオウム集教団の代理人を務める弁護士と松本智津夫との一問一答の形式で行われたので、松本の言いたい放題、言い放しに終始している。私は朝日、毎日、読売の弁明記録をていねいに読んだ。細部において三紙は若干異なっているが、共通して受ける印象は松本智津夫が自分に都合のいいテーマを弁護士に質問させ、腹案通りに応答し、彼自身はいかなる違法行為もしていないしこれからもするはずがない善なる求道者であるとの役割を悠然と演じきっている。この部分だけを読むと、迫害されている宗教家というイメージになる。「盲人を袋に入れておいて、袋叩きにして、裁こうとしている。私は盲人なんです」と彼は叫ぶ。そして少し自分に都合の悪い議論になると、第三者に理解できない宗教用語で煙幕を張る。
そのいい例が松本サリン事件に関連のある説法を問われたときである。
「麻原 わかりました。まず、この説法と松本サリンの時期は一年以上ある。それだけじゃなくて、私たちは本質的に、七万二千本の気道(空気の道)から成っている。うち、むさぼりが二万四千本。怒り、愛着が二万四千本、無知、知恵が二万四千本、この三つのサーディ(気道)が存在している。七万二千本の中には、苦しみの人となる命題が存在する。それはいじめられること、たたかれることでしか落とすことができない。これが圧力。また、徳によってエネルギーを満たす作業を、サンダリーとかいう。エクスタシーを持った熱を昇華と増加させることで、七万二千本の気道は至福に満ちる。新しい私と呼ばれる五つの身体が形成される。五つの身体は、変化身、この世界で生きる。法身、これは心の世界。報身、心とこの世界を通じる啓上の世界。金剛身、心の世界と形状の世界の両方を生きる。それから本性身。(以下略)
公安調査庁の解釈はまったく根拠がなく、私は笑ってしまいました。意図的に証拠を作文、ねつ造していると思う。
代理人 仏教の教えをそのまま説いたのか。
麻原 そうです。
代理人 地主、松本市、裁判所に対する教団の仕返しを意味するのか。
麻原 そうではない。全くこの説法は関係ない。いわれのないことでございます。(『朝日新聞』1996年5月15日夕刊)
予想されていたことではある。刑事裁判と違って検事も判事もいない弁明の場である。無法を犯しているのは公安調査庁だという前提で弁護士が質問し、「その通りです。」と松本が答えるスタイルになっていて、反論ひとつできない公安調査庁側はまことに分が悪い。限られた時間内において、被告に言いたいだけ言わせるという法の趣旨からいえば、このような異様なアンバランスが生じたのもある程度止むを得ないこととはいえ、主に先述の(一)と(三)だけを松本に発言させ、(二)については、わずかに右引用の宗教問答で済ませた弁護団のやり方は、国民を愚弄しているといえないだろうか。オウム真理教事件のような国民を恐怖に陥れた無差別テロに対しては、弁護団も真実の追及に協力する義務があるのではないだろうか。
(二)の「暴力主義的破壊活動」をすでに行なったか否かの事実の有無に関しては、たしかに破防法ではなく、刑事裁判の担当領域といえるであろう。事実認定が破防法の目的でないことはあらためていうまでもない。けれども(二)に関連し、被告はたとえば松本サリン事件の、すでに明るみに出された教祖の役割をめぐって、自分に有利な、都合のいい弁明をすることが許されているのである。ここで彼はいくらでも詭弁を弄し、弟子たちの証言に反論し、自己弁明することが許されているのであるから、弁護側がそれをさせないのは法の精神に反するのではないか。刑事裁判と破防法の弁明とでは法の目的が異なるのであるから、刑事裁判が進行中であるのを理由に、(二)の事実関係には踏み込ませないという弁護団の主張は、ほとんど理由として成り立たないと私は思う。
(二)の要件がこんな具合だから、主観の相違で片がつく他の要件は推して知るべしである。(三)「将来における破壊活動の再犯の怖れ」を否定した松本の次の言い方は、新聞の読者にもご記憶があるであろう。「拘置所はコンクリートが厚く、洞穴に近い。個人的には絶好の瞑想の機会を得ている。それを阻害するのは何人たりともできない。奪還?むしろ私は拒絶したい。」見事なまでのしぶとい居直り、あっぱれな面構えである。
(つづく)
西尾幹二 「現代について」