桶谷秀昭「昭和精神史戦後篇」 広田弘毅④

花山の再三の慫慂に廣田は重い口をひらいて、二つのことをいつた。

「公人として仕事をして以来、自分のやつたことが残つてゐるから、今さら別に申し加へることはない」

たぶん、これは外交官時代から座右の書であった『論語』の『子路』篇の中の言葉、「己ヲ行フニ恥有リ。四方ニ使ヒシテ君命ヲ辱カシメズ、士ト謂フベシ」といふ廣田自身のモットオを、含羞に包んでいたものであらう。この場合の「士」とは官吏の意味である。また「有恥」とは「行己」と結びついて、羞恥を生む行動はしないといふ意味になる。たとへば極東軍事裁判の法廷で、自分の弁護のためにほかの被告を非難するやうなことは、「有恥」の反対である。さういふ無恥の言動をしなかつた。

のみならず、昭和10年、廣田が岡田内閣の外相時代、在華日本代表を公使から大使に昇格させたのを手はじめに日華共和外交をおこなつたとき、関東軍参謀長板垣征四郎の強硬意見と衝突し、それを抑へようとした。そのことを裁判で有田八郎(元外相)証人が口述書の中で書いてゐるのを、板垣が廣田に撤回せよと語気つよく迫つたことがある。廣田は承知した。しかし廣田の守島弁護人は、廣田の平和外交を証言するためには、軍の横暴を明らかにするのは不可避であるといって譲らず、つひに弁護人を辞任した。しかし廣田は動揺しなかった。死は勘定に入れてあつた。

廣田が花山教戒師にいつたもう一つのことは、死生観である。これも観などといふのは似合わない、唇から洩れたひとりごとのやうに、つぶやくやうにいつた。

「ただ自然に死んで・・・・・・すべては無に帰して……自然に生きて、自然と死ぬ」

死後の浄土への救済を重んじる他力念仏の僧侶である花山は、苛立ったであらう。それは禅の境地かとかさねて訊ねた。廣田は否定も肯定もせず、禅に近い、とだけいつた。

12月22日の朝、刑の執行が十数時間後に迫つた最後の面接で、花山は執拗に、何かいひのこすことはないか、家族への伝言は、と迫るようにいつたが、むだであつた。

「詩や歌をつくる、さういう文学のやうなことは、早い時期から一切やめたから」

これも、「己ヲ行フニ恥有リ」といふ含羞に由来するものであつたかもしれない。

(つづく)


桶谷秀昭 「昭和精神史戦後篇 東條英機と廣田弘毅(下)」

いいなと思ったら応援しよう!