夏目漱石「それから」 甘い文彩
三千代はその時、少し窘める様な調子で、
「あら嘘」と云った。代助は深い目を三千代の上に据えて
「僕は、あの時も今も、少しも違っていやしないのです」と答えたまま、猶しばらくは眼を相手から離さなかった。三千代は忽ち視線を外らした。そうして、半ば独り言の様に、
「だって、あの時から、もう違っていらしったんですもの」と云った。
三千代の言葉は普通の談話としてはあまりに声が低過ぎた。代助は消えていく影を踏まえる如くに、すぐその尾を捕えた。
「違やしません。貴方にはただそう見えるだけです。そう見えたって仕方がないが、それは僻目だ」
代助の方が通例よりも熱心に判然(はっきり)した声で自己を弁護する如くに云った。三千代の声は益(ますます)低かった。
「僻目でも何でも可(よ)くってよ」
代助は黙って三千代の様子を窺った。三千代は始めから、眼を伏せていた。代助にはその長い睫毛の顫える様が能く見えた。
「僕の存在には貴方が必要だ。どうしても必要だ。僕はそれだけのことをあなたに話したい為にわざわざ貴方を呼んだのです」
代助の言葉には、普通の愛人の用いるような甘い文彩(あや)を含んでいなかった。彼の調子はその言葉と共に簡単で素朴であった。寧ろ厳粛の域に逼っていた。ただ、それだけのことを語る為に、急用として、わざわざ三千代を呼んだ所が、玩具(おもちゃ)の詩歌に類していた。けれども、三千代は固より、こういう意味での俗を離れた急用を理解し得る女であった。その上世間の小説に出て来る青春時代の修辞には、多くの興味を持っていなかった。代助の言葉が、三千代の官能に華やかな何物をも与えなかったのは、事実であった。三千代がそれに渇いていなかったのも事実であった。代助の言葉は官能を通り越して、すぐに三千代の心に達した。三千代は顫える睫毛の間から、涙を頬の上に流した。
夏目漱石 「それから」