宗教の事件 09 「オウムと近代国家」より 三島浩司

・・・・・・それは、裁判では常にあることじゃないんですか。三島さんの前でこんなことを言うのは釈迦に説法もいいところだけど、法はそれぞれの人間が凶暴などに主体的にかかわった結果として事件が起こったと判断するけれども、実際は「そんなはっきりしたものでは全然ない」というのが多いはずですよね。法の実務家としては、そのレベルの問題にどう対処し、どう整合させるんですか。

三島 そのレベルの問題が、実は一番難しい。こと言語のレベルでは、一番難しいところでしょうね。たとえば、シンポジウムで橋爪さんと議論になった「隣りのオウムは気色悪い」という話。空中浮遊なんかやっているやつが隣りにいたら気色悪いと感じるのは普通の感情だと思うんです。しかし「気色悪いから、あいつを排除せよ」という結論にはならないし、またそんな結論に持っていくべきではない。その場合、排除の結論にもっていかないためには、言語レベルでの飛躍が必要となると思う。
言語レベルの飛躍としては、われわれは抽象的で独立・自立した人間として、運命として惜定されてしまっている。これが良いことか悪いことかはわかりませんよ。だが、少なくとも法のレベルでは惜定されている。その限りにおいて、「太陽が眩しいから、人を殺した」というのは通用しない。ムルソーはあかん、と。独立・自立した人間としてかくかくの理由でかくかくの行動をとったんだと説明できなければならない。舞台の上の役者のような存在として惜定されているのだから、そう振る舞うより仕方ないんだ、と腹をくくるのかない。これが言語レベルで飛躍した近代法の人間観なんですよ。

この前、「サンデー・プロジェクト」に出たときに視聴者にぜひ話したかったことがあるんですよ。結局、実現できなかったんですがね。つまり、復讐というのは人間の高貴なる感情の発露なのであって、このあたりのことで嘘をついたら人間の生などありはしない。自分の肉親や友人たちが殺されたら、「いてまうど」と思うのは当たり前のこと。だから、復讐の問題は私は十分了解できる。しかし、哀しいかな弁護士という職能として私が使う言語はそのレベルのものとは違う。みなさんも一方では「腹立つなあ」と思いながら、近代法によって独立・自立し、責任主体であると惜定されてしまっている。その立場を引き受けている。だから、そのレベルの言語で話します、とね。

しかし生身の人間というのはその人間観を食い破ろうとする。それぞれ裁判官、検察、弁護士という場を通しながら食い破ろうとする。弁護人の場合は、被告人の目を通して食い破ろうとする。これが裁判というものの面白さだと、思っているんだけどね。

・・・・・・あいつは気に食わないから殴ってやろう、と。そういうふうに全くの個人の感情の表出を前提とした自己主張として喧嘩に勝つのと、組織のシステムとして勝つのとは、同じ「勝つ」でも全然違うのではないかと思うんです。これは橋爪さんにも投げかけた問いなんですが、橋爪さんには「そういう人は裁判なんかしないほうがいい」といなされてしまった。でも、僕はごく個人的なところで絞り込んでゆけば、同じ喧嘩ならば裁判で勝っても一体何が楽しいんだろうと思うタチらしい。ただ、これは僕個人の性癖だけでなく、人間の一般的な部分として、裁判で完勝するよりも、俺はあいつを刺して復讐したいという気持ちは絶対にあると思いますよ。しかし、橋爪さん的にいうと、それをフィクションとしての近代的に主体に押し込めておけるのが人間の知恵なんだ、ということになるのでしょう。で、それはもちろん前提として認めますし、僕だとてふだんは尊重していますが、でも、同時に、そういうフィクショナルで抽象的な人間観を肉体言語の側から食い破りたいという気持ちは、どうしてもあってしまうじゃないですか。

三島 あるある。人間はアホで悲しい存在であってね。大半の人間は生身をさらしながら恥多い日々を送る。どうしても、生身の肉感の充実を求めるんですね。肉感の生々しさで理念としての人間観を食い破ろうとする。かく言う私もその通りでしてね。裁判というのは、生身と理念がぶつかり合い、相克を繰り返す場なんですね。それが裁判のというか、人間の面白さじゃないかな。

結局は自分の好みで賽を振るしかないんでね。私なんかは、やはり個々の生身の人間の面白さ、哀しさのほうに傾いてしまう。「無法松はおもろいで、あんなんがおらんと、世の中なんもおもろないやないか」と。そこへ帰ってくるんだね。

・・・・・・でも弁護士というのは本来そういう仕事であって、生身の人間にアジャストするしかないんじゃないかとは思うんですが、そのあたりのことで悩まない弁護士もいたりするんですか。

三島 おるんじゃないかな。むしろ最近多くなってるよね。世代的なものもあるだろうし、人間どうしてもええ恰好したいのかな。だから、今回のオウムの問題のように一挙にアラが見えちゃうわけだ。人間を抽象化してしまって、しかもそこにいきなり倫理観を付着させるから、「正しい人間のあり方」といったことを大真面目に口にする。「そんなもんあるわけないやないか。生身の人間をいろいろ見とるほうがおもろいやないか」というところがないね。

・・・・・・それは結局、オウムを弁護する弁護士が極めて少ない、という現実に集約されている。日頃人権やなんやと能書きを言うてる奴に限って、今回はいろいろまた別の能書きを垂れて逃げる。そのツケは弁護士業界で今後まわってきますか。

三島 まわってくるでしょうね。本当は今回の事件に対する業界の対応の欠陥を認めるところから始まるんでしょうが、どうでしょうか、そうはならんでしょうね。

・・・・・・でも、ごく個人レベルでの好き嫌いでいえば、「オウムの弁護なんかしとないわい」というのはようけおるでしょうね。

三島 それはそうでしょう。それを批判するつもりは一切ない。しかし、この業界も業の世界でね。弁護士は職能なんだけど、被告と付き合っているうちに情が移るんですよ。必ず情が移る。それがないと、仕事としてもなかなか難しい問題もあると思う。

例えば、日本赤軍のダッカ事件の泉水博の弁護をやった時のことですがね、泉水は、ダッカで日本赤軍がハイジャックした時に、赤軍から指名されて、超法規的措置で国外に脱出した、刑務所に収容中の刑事犯です。泉水のことはマスコミを通じて知っていただけだから、私には彼が日本赤軍に投じたのも「一種の売名行為にすぎないのではないか」という偏見があった。で、泉水をはじめて拘置所に尋ねた時、私はこういったんですよ。「どんな人間でも法律上の正当な手続きを受ける権利がある。そういう意味でここにきている。ただし、私は日本赤軍に対しては何のシンパシーも感じていない。その点については好きなことを言わせてもらいたい。それを聞いてもらって、私を弁護士に選ぶかどうかを全く遠慮しないで判断してほしい。あなたが断っても、私は全然気にしないから」とね。

そういう具合に言いたい放題言った後で、「泉水さん、私を選任しますか」と訊いた。すると、泉水が「私はお願いしたいのだけど、こういう身で、実はお金がないんです。この身で先生に負担をかけるのは自分としては申し訳ない。それで、ためらっているんです」という。「そんなことは心配することはないんです。私とあなたの信義の問題として、私と今後付き合うことができるかということだけを言ってもらえばいい」と私がいうと、泉水は、ほっとした顔つきで「じゃあ、お願いします」と答えた。

その後でちょっとやりとりがあって、実は私は泣いちゃったんです。「ところで、あんた、所持金はいくらある?」と聞くと、「十分あります」という。「なんぼある?」とさらに訊くと、泉水は「千円もあります」といった。「千円も」というのを聞いてたまらんようになってね、「わかりました。余計な負担は一切考えんでください。些少ながら、少々差し入れをさしてもらいますから、遠慮しないでください」といって出てきたんですけどね。泉水は人間としては一級品だった。それこそ無法松のような凄い男ですよ。

その泉水氏の目から麻原の問題に光を当ててみたいという気がする。無法松の目から「あんた、間違うとるとちがうか」とね。麻原の自律的な意思に基づく回心を問い掛けてみたい気はするね。ドストエフスキーふうに言えば「ロシアの大地に接吻しなさい」となるのだろうけど、日本人ふうに言えば「路地の片隅で一緒に泣きましょう」ということなんですな。これができればな、という気はしますね。

・・・・・・なるほど、さきほどの三島さんの物言いで言えば、麻原が無意識でしか抱えてない“闇”の記憶みたいな者を裁判を通してどこまで引きずり出せるかということになるわけですね。そうなると、今後引き続いて行われるオウム裁判というのは判決という結論だけが問題なのではなくて、むしろそこに至るプロセスをどれだけ社会に示し、前向きに還元できるかということになってきますね。ことに今回のオウムのような結果がほとんど見えている裁判は、結果がどうであるかというよりも、そこへのプロセスを提示することで、どれだけ社会に対して考える素材を与えるかということですね。

三島 そうです。それが裁判が持っている一番大きな意味だと思いますね。

・・・・・・裁判は水もんや、見世物や、とよく言われますけど、そんなら役に立つ見世物にしたらええやないですか。おまえらちゃんと見んかい、と。マスコミもちゃんと報道せんかい。レポーターでも記者でもなんぼでもこい、と。それなら、凄くわかりやすい。

(つづく)


「オウムと近代国家」(南風社)

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