田川健三「キリスト教思想への招待」 葡萄畑の日雇労働者②
この労働者を日雇労働者と呼ぶと、そもそも雇用形態が現代とは違う時代の話だから、いささか正確さを欠くことになるが、その点もここではくり返さない。ともかく彼らが日雇いで雇われていたのは事実だし、賃金も一日分の労働に対してそのつど支払われていた。(中略)
一読にして明瞭であるように、この話のミソは、その日は仕事にあぶれて一日中町の広場で立ちつくしていた労働者も、一日分の労賃をもらう、という点にある。もう一度言うが、労働者が失業するのは、いろいろ例外はあるだろうけれども(例外をもって一般論としてはいけない)、一般的には、その労働者自身の責任ではない。そもそも職がなければ働けない。なんとかうまく職にありつけるのは、運の部類である。その人の能力とて、運よくそういう能力を持つにいたった、というだけのことである。生れつきの体力や能力であったり、運よくそういう能力を身につける環境に育ったり、能力があっても運悪く周囲に認められることがないこともあろうし、運悪く病気や怪我で働く機会を失うこともある。逆に、運良く仕事にありつけた者は、自分が仕事をすることができる、ということを、自分個人がすぐれているからだ、などと思い上がらず、感謝して受けとるべきことだろう。いや、もちろん、現在の資本主義かつ官僚支配の社会となるとあらゆる類のうさん臭さが満ちあふれているから、話はそんなに単純ではないが、それはまた別の水準の問題である。
ともかく、イエスは、仕事にあぶれた人も、その日一日分の賃金を手にした、という話をした。もちろん作り話、その時代の現実では考えられない単なる夢である。逆に言えば、夢を語るということは、たとえ現在の事実ではなくても、本当はそうなってくれるといいけれども、という思いが表現されている。
実際、日雇いで、その日その日の賃金をもらうとすれば、今日働けなかったということは、自分と家族が今日は食うことができない、ということを意味する。もちろん実際には、いつも晴れた日ばかりとは限らない。季節によって仕事が少ない時期もあろう。「安息日」は休まないといけない。したがって、古代であっても、日雇労働者も多少の蓄えはあっただろうけれども、基本的には、今日働けなければ、今日食べることができない、という事態に変わりはない。しかし、同じ人間として生きていて、それでいいのだなどということができるだろうか。お前は今日は働かなかったのだから、それで当たり前ではないか。ひもじい思いをして、鼻をすすって、寝ていろ、と言ってすますことができるのだろうか。これが当り前なら、ますます運河差別を広げていく。明日になったら昨日十分に食って、安心して眠ったやつのほうが、鼻をすすって寝つけなかったやつよりも、体力があるのは当然である。雇い主は、体力のある労働者を雇う。かくして差はひろがっていく。
そうではなくて、運よく働ける人は、与えられた機会に感謝して十分に働き、その仕事によってこの社会を支えようではないか。しかし、今日も安心して食べることができ、安心して寝る場所がある、ということは、すべての労働者に保証されてほしい。一デナリが1日分の賃金であるのなら、みんなに一デナリずつ分けようではないか。(中略)
これは、いい話ではないか。こんないい話はめったに聞くことができない。たとえ夢であっても。驚くべき点は、これが後一世紀の一人の大工によって語られている、という事実である。2000年も前に、すでにこういう夢を語ってくれた人がいる。すごいことではないか。この精神をやや理論的な言葉で表現すれば、まさに、「能力に応じて働き、必要に応じて消費する」ということになる。それは労働者の人権が多く語られるようになった19世紀以降になって口にするのならともかく、一世紀にすでに口にした、それもわかり易い譬え話にして、鮮明に語ってくれた、これはすごいことではないか。一世紀なんて、日本ではまだ石器時代だった。
(つづく)
田川健三 「キリスト教思想への招待」