古井由吉「槿」 呼びつければ

女のただ静かに歩きまわる足音がする。それだけで男は夜々やつれていく、と怪談の一節らしいものを、いつどこで聞いたものやら読んだものやら、杉尾は思い出した。履物の音を響かせるというような賑やかなものではない。うらめしげでもない。日常の立居のけはいにすぎない。男の睡(ねむ)りを妨げまいと心もつかっている。とすれば、幽霊である必要もないわけだ。呼びつければ、何でしょうかと顔を出す。水を持って来いと言えば、持ってくる。床へ来いと命じれば裾のほうに屈んで帯を解きはじめる。端正なように乱れて、男が飽くと、そっと起き出してまた働きはじめる。うるさいから歩きまわるなと怒鳴りつければ、ハイと返事して一室にこもりきり、さらりとも音を立てない。その静かさがまた男にとってひとりでに凄然の気を帯びかかる。たまりかねて部屋を忍び出し廊下を渡って、はたして妖しの影の黝く揺らぐ女部屋の障子をがらりとあけると、針仕事の上からあどけない顔がふわりとこちらを仰ぐ。居眠りをしておりました、と赤らめた眉のあたりにたしかに、さきほど男に荒く扱われた疲れが滴っていて、虚をつかれた首をほっそりと伸べ、さらに頤を茫然と宙へあずけている。お前は俺を・・・・・・俺に殺されて幽霊になる了見だな、と男はついに絶叫する。子供たちはというと常日頃、母親の沈黙に一体のごとく、安心して寄添っている。


古井由吉 「槿」

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