森銃三 「よい書物を知るというのは
「よい書物を知るというのは、要するに著者を知ることである。いかにしてよい著者を知るか。それはむつかしい問題であるが、私は近頃一つの方法を思いついた。それは著述家として顕れている人がラジオの放送をする場合には、努めて聴いて見ることである。前後を通じて聴いて、その放送の内容を考察して見るなどという念の入った方法を取らなくともよい。その人の音声、使用する言葉、話の調子などにもその人が出る。これはよい人だと思ったら、機会を得てその人の著書をも見ることとする。歯の浮くようなことを平気で述べていたり、話方が気障だったり、厭味だったり、軽薄だったり、蕪雑だったり、がさついていたり、下品だったり、落着を欠いていたりする人、えらがり、勿体ぶっている人、技巧的に言葉ばかりを飾り立てているだけで中身がなく、いっていることに個性のない人、時代への迎合をこれ事としている人、自己の宣伝に努める人、分り切ったことをくどくど述べ立てる人、また得々と述べ立てる人、一応尤もなことを述べていても、人を動かす真実性を欠いている人、その真実性を強いて振廻そうとして、附焼刃で、おのずからなるものを欠いている人、そうした人は一、二分聴いているだけでもすぐ分かる。さような人の著書にはそうした気持ちが必ずまた出ているであろう。そうした人の書物がいかに持て囃されていようと、私等はさようなものを強く反撥したい。その書物を覗いても、そうしたことは知られるわけであるが、ラジオではいっそうその点が判然する。その点でラジオは都合がよい。」
森銑三 「ラジオと著述家」